2010年2月28日日曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(37(20100228)

どういう人物が働きかけたのかどうか分からないが、国連人権委員会が高等学校の教科書代無償化について朝鮮学校を除外する動きに対して懸念を示した。鳩山総理は朝鮮学校でどのような教育が行われているのか不透明であるし、北朝鮮による拉致問題が未解決な状況下、除外する方向であるという趣旨の発言をしていたが、その後トーンダウンした。
この問題は一部の勢力の言うなりになって解決してはならないと思う。先ず朝鮮学校でどのような教育が行われているのか殆どの日本国民は知らされていない。学校では反日教育が行われているという話を聞いたことがある。朝鮮総連の幹部は北朝鮮の政府高官との間で緊密な連絡を取り合っていると言われている。
国交がない国の民がこの日本国内で自由気ままな活動をすることを許し、人権という美名のもとにこの民に日本の参政権を与えようとする動きがある。勿論人権を尊重することは非常に重要である。しかし権利には義務を伴うのである。権利だけを認め、義務について寛容であることがあってはならない。朝鮮学校における教科書の無償化は、その学校で行われている授業内容を100%公開するという義務が果たされるならば、権利として当然認められるべきである。先ずは義務を果たして貰いたいと思う。

政権や与党の実力者は先ず謙虚であって欲しいと思う。一部の実力者がその他の衆を束ね、わが思いのままに行動をすると、必ず禍根を残す。実力がない故に声を発さない衆の者の内なる声を聞かず、進んで憎まれ役をしている者がいる。彼は‘声を発さない衆の者’の影に怯え、公的なボディーガードに護られている。
一般国民はそのような政権や与党がこの国を支配していることに言いようのない不安を感じている。それでもこれまでよりはましだと思って固唾をのみながら彼らを見守っている。よく考えてみれば、これは異常な状況である。もしここに新たな政党が誕生し、行動を起こしたならば、一般国民の期待は一挙にその新たな政党の方に向けられるだろう。

次のことばは、聖者に関するブッダのことばである。政権や与党の実力者は勿論聖者ではない。しかし、聖者のようにあって欲しいと思う。もし聖者のようにあれば、一般国民の言いようのない不安感は払しょくされ、この政権と与党に対して歓喜の声を上がるだろう。

268269 ただ沈黙しているからとて、愚かに迷い無智なる人が<聖者>なのではない。秤を手にもっているように、いみじきものを取りもろもろの悪を除く賢者こそ<聖者>なのである。かれはそのゆえに聖者なのである。この世にあって善悪の両者を(秤にかけてはかるように)よく考える人こそ<聖者>とよばれる。

ここで「賢者」について、「ブッダ「真理のことば」を学ぶ(35(20100226)」参照。

2010年2月27日土曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(36(20100227)

 今日(25日)のNHKテレビの福祉ネットで「沖縄戦遺骨収集で再起をめざす路上生活者」という番組を観た。あるNPOが昨年沖縄県に働き掛けて50人ほどの路上生活者を集めて65年前の沖縄戦で戦って死亡した兵士たちの遺骨を収集する事業を行い、路上生活者たちが生きる希望と勇気を得た話題を、鈴木さんと照屋さんの二人の路上生活者にスポットを当てて取材された番組である。観ていて大変感動した。

 現場はなにか建設工事が行われる場所らしいが、沖縄戦で日本軍の司令部があった場所の近くだという。路上生活者たちは2ヶ月間の遺骨収集作業で20万円の報酬を得、戦いで死んだ兵士たちの遺骨に向き合って前向きに生きて行く元気を取り戻していった。

 鈴木さんは作業現場での人間関係がうまく行かなかったため途中で辞めたが、170体あまり集まった遺骨の慰霊行事には参加した。人間関係がうまく行かなかった原因は過去のトラウマにより人間不信に陥ってしまって元に戻れなかったためである。照屋さんの方は長男をフォークリフトによる事故で失い、それがもとで二男と生れたばかりの三男がいたのに勤めていた運送会社を退職し、家族と別れ、路上生活に陥ってしまった。照屋さんは遺骨収集で得たお金で4年前別れた息子たちにクリスマスプレゼントを買い、2万円の現金を添えて知人に託し、別れた妻子のもとに届けた。愛知県の自動車部品関係の工場に就職も決まり、人生の再出発を果たした。照屋さんは頭蓋骨に銃創の跡が残る遺骨に対面して、この兵士は生きて帰り会いたい家族がいたのに会えなくなったことをわが身に照らして考え、生き方を変えたのである。このNPOはとても素晴らしい活動をしていると感じた。

第十九章「道を実践する人」つづき。

261 誠あり、徳あり、慈しみがあって、傷(そこな)わず、つつしみがあり、みずからととのえ、汚れを除き、気をつけている人こそ「長老」と呼ばれる。

 件のNPOの代表たちは正しく「長老」のようであった。遺骨収集作業に従事した50人ほどの路上生活者の中には70代の人もいる。代表たちは彼らに誠実に向き合い、生きる希望を与え、宿泊場所を与え、励まし、威張らず、皆が喜ぶこと様子をみて喜んでいる。本当に偉い人たちである。おそらく50代か60代前半の方であろう。彼らが自分にできないことを行っているので、本当に尊敬する。

 もうひとつ感じたことは、戦後65年も経つのに沖縄では未だに戦争の傷跡を引きずっているという現実である。このNHKのドキュメンタリーには作為はないであろう。このような現実をもっと多く日本人は知るべきである。若い人たちに教えるべきである。一票の格差がどうのこうのと話題になっているが、人口が集中している東京、横浜、名古屋、大阪など大都市に住む人々は、自分も含めてあまり地方のことは知らない。世論を左右する論客たちは皆都会人なのである。身をもって地方のことを知っているわけではないのだ。

2010年2月26日金曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(35(20100226)

 豊田リコール問題で豊田社長がアメリカの議会で証言台に立った。問題発生の責任を率直に認め、謝罪し、今後の取り組みへの決意を誠実に述べたことは良かった。しかし自分自身が副社長のときブレーキ不具合に関する情報を知らなかったと言い、改善に向けての社内体制等については言及しなかった。このことについて一部の議員から批判が出ている。

 豊田社長は公聴会のあとアメリカの社員たちの前で「私はひとりではない。素晴らしい仲間たちがいる」と涙ながらスピーチした。件の問題は創業家の豊田氏が社長に就任後表面化したものであるが、このように問題が大きくなる前ある役員は「ブレーキシステムには問題がない」と言う趣旨のことを述べていた。豊田氏はアメリカの議会で会社の役員たちの責任に一切触れなかったがそのことが一部の議員が不満に思っていることかもしれない。彼が役員たちの責任に触れないまでも、「一切の責任は自分にある」と言えば、そのような議員たちの不満を少しでもそらすことが出来たのかもしれない。

 ところで昨日載せたことば258番の詩に出て来る「賢者」とは訳注によれば、何でもかんでも知っている物知り博士という意味ではなく、人生の真理を体得している人という意味であるとのことであり、「智者」も同義であるとのことである。

 「体得」は『広辞苑』によれば「十分会得して自分のものにすること。」とある。そして「会得」とは「意味をよく理解して自分のものにすること。」とある。技を身につける場合何でもそうであるが、先ず「会得」し、同じことを繰り返し鍛錬して、初めて「体得」できる。

 野球のイチロー選手など卓越したスポーツ選手は、技を体得しているから自然に合理的に身体が反応するのである。「・・・ありたい。」という願望の段階ではまだ体得まで至っていないのである。オリンピックでマスコミはファンの期待をこめて、まだ体得まで至っていない選手に対しても過大な期待をかけてテレビで放映し新聞誌上で書きたてる。しかし自分の実力を一番良く知っているのは当の選手たち本人である。

259 多くを説くからとて、それゆえにかれが道を実践している人なのではない。たとい教えを聞くことが少なくても、身をもって真理を見る人、怠って道からはずれることの無い人、かれこそ道を実践している人である。

 生後の教育が重要であることは間違いないが、生後の教育だけではどうにもならないものがあると感じる。「身をもって真理を見」「道からはずれることが無い」人は、その素質を生まれながらにして持っている人だと思う。創業家の豊田社長は「顧客第一」と述べた。技術的見解よりも、実際に車を運転している顧客の身になって物事を考え、問題を処理するため骨身を削る努力をする。これがすんなりとできる人はその資質の7割ぐらいを生まれながらにして持っているのだと思う。人物を見分けるには直感が重要であると思う。

2010年2月25日木曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(34)(20100225)

 今日23日の読売新聞夕刊に日本テレビ文化部記者・「donna」キャスター鈴木美潮という方による国母選手の服装に関する記事があった。これを見た男が次の感想を持った。このブログの記事を彼女が見ることはないであろうがなにかのために書きとめておこう、とその男は思った。

 男は思う。これは彼女が入社時の自分の装飾について問われた経験がバックにあって、国母選手の服装について批判するのはおかしいという立場である。「ユニフォームとしてのスーツを渡されたら、自分なりに着こなしてました。五輪を軽視していたわけではない。」という部分は男も「今時の若者の気持ちだろう」と理解できる。しかし「選手団が全員髪の毛を七三分けにして銀行員のようにスーツを着て登場してきたら、それはそれで嫌な気持ちになると、私は思う」という部分は、どうもおかしい。彼女は多少感情的に書いている。和魂洋才・中庸・礼儀などは時代が移り変わろうと日本人の美徳として大事にていかなければならぬ。洋服を着ようとワインを飲むと、日本人は日本人なのだ。彼女があのような記事を平気で書くのは、男’たちの世代の罪である。その罪名は、若い人たちに対してちゃんと教育してこなかったという「教えざるの罪」である。

 さて、ブッダ「真理のことば」第十九章は「道を実践する人」である。

 鏡に映った自分の横顔をみると、このまま白木綿の着物を着、その上に薄墨の衣をかけ、足に脚絆をつけ草鞋を履いて杖でも持てば出家の修行者のように見えるかもしれない。四国八十八か所を数カ月かけて巡ったあるお方が、「分かったことは、持ち物も何も要らないということです。」と語ってくれたことがある。今の男は段々そのような心境になりつつある。男は吾只足りるを知り、良寛の作詩『意(こころ)に可なり』の中にある「欲なければ一切足り、求むるあれば万事窮す」を口ずさむ。

 男が折角そういう心境になったかと思うと、今度は煩悩の芽がむらむらと起きる。優しい気持ちになっているかと思うと、ときに激しい怒りの言葉を口にする。そして夜になり、途中トイレに起きたりして7時間ばかり床の中に居て、朝になるとまた一日が始まる。西行の作詩『至善』の中にある「一日を一生として」可もなく不可もなく、平穏な、幸福な毎日を送っている。かくして月日を重ね、老いてゆき、「あの世」に近づいている。

256 あらあらしく事がらを処理するからとて、公正な人ではない。賢明であって、義と不義との両者を見きわめる人。
257 粗暴になることなく、きまりにしたがって、公正なしかたで他人を導く人は、正義を守る人であり、道を実践する人であり、聡明な人であるといわれる。
258 多く説くからとて、そのゆえにかれが賢者なのではない。こころおだやかに、怨むことなく、恐れることのない人、かれこそ<賢者>と呼ばれる。

2010年2月24日水曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(33(20100224)

 第十八章「汚れ」は235番目から255番目までの詩があるが、次の二つの詩を取り上げて次の章に移ることにする。

252 他人の過失は見やすいけれども、自己の過失は見がたい。ひとは他人の過失を籾殻(もみがら)のように吹き散らす。しかし自分の過失は、隠してしまう。狡猾な賭博師が不利な骰(さい)の目をかくしてしまうように。
253 他人の過失を探し求め、常に怒りたける人は、煩悩の汚れが増大する。かれは煩悩の汚れの消滅から遠く隔たっている。

 男の手元に『NHK市民大学ラジオ「釈迦とその弟子」』のテキストがある。これは、19881月から再放送されたもので、10回まである。全部聴いたかどうか記憶には残っていないが、以来折に触れこのテキストを取りだしては読んできた。このテキストにはブッダ(=お釈迦さま、釈尊)の若き日から入滅までのことが書かれている。講師は駒澤大学教授奈良泰明である。このテキストを読むと約2500年前の釈尊のことが目に浮かぶようである。
勿論それは空想にすぎない。実際に自分がそのとき釈尊のお傍にいたわけではないのだから。しかし人は意識をそのような遠い過去までさかのぼらせることができるし、逆に遠い未来に自分の意識を働かせることもできる。この自分の肉体は時間の経過とともに徐々に朽ちてゆくのであるが、自分の魂はその意味で永遠である。

 テレビを見ていたら関東のある田舎で、婦人たちが餅を作っていた。この餅の始めは江戸時代にあった飢饉を乗り越えるため、皆が力を合わせて手元にあった食材を活かした餅を飢えをしのぐ食べ物として作ったものである。ある婦人は「これを次の世代が受け継いでもらうようにしたい」と言っていた。ある伝統的なものを次世代に引き継いでもらうことは、やがてこの世から消えて行く者としての生きがいである。人はそのようにして自分が前の世代から受け継いだものを守り、次の世代に引き継いでもらうように努力する。その行為は独りではできない。誰か協力者がいたり、仲間がいたり、社会的な仕組みがあったりする。組織でもそれは同じである。単独の組織だけでは継続できない。

 たまたま見たテレビ番組で航空自衛隊の二人の若い少尉(と言いたいが、‘若い三等空尉’)が戦闘機パイロットに育ってゆく状況が放映されていた。二人は共に25歳、一人は防衛大学校出、もう一人は操縦学生出身である。二人は厳しい訓練と試験を経てようやく、家族が見守る式典で航空団司令からウイングマークを胸につけて貰っていた。次は実戦航空団に配属されF15-DJのパイロットになる訓練を受け、実戦配置に就くのである。

 素晴らしい人生を歩むため煩悩は避けられない。しかし、その中にあって正しい生き方を心がけ人生を全うすることはできる。上の詩にあるような「他人の過失」を見つける暇があったなら、その時間を惜しんで自己の実現のために努力する方が幸せである。

2010年2月23日火曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(32(20100223)

242 不品行は婦女の汚(けが)れである。もの惜しみは、恵みを与える人の汚れである。悪事は、この世においてもかの世においても(つねに)汚れである。
243 この汚(けが)れよりもさらに甚だしい汚れがある。無明(むみょう)こそ最大の汚れである。修業僧らよ、この汚れを捨てて、汚れなき者となれ。

昨日に引き続き第十八章「汚れ」である。上の243番目の詩に「無明」という言葉がある。これは、『仏教要語の基礎知識』(水野弘元著、春秋社)によると、「無知であって、四諦や縁起の道理を知らないこと。仏教の根本思想としての世界観や人生観に通じないこと。」であり、この反対は「正見」である。(「正見」について関連記事:「2010213日土曜日、ブッダ「真理のことば」を学ぶ(22(20100213)」)
四諦とは「①苦諦・・自覚なき苦脳の現実世界、②集諦・・現実世界の原因・理由、③滅諦・・自覚ある理想世界、④道諦・・理想世界の原因・理由」のことである。『般若心経』にある「無苦集滅道」はこの四諦も無いということである。
この「苦集滅道」を『仏教要語の基礎知識』には「人びとの精神的病気である苦脳をいやすことを例にとり、「・・凡夫の現実の状態・・病状」「・・現実の苦の原因・・病因」「・・自覚ある理想状態・・健康態」「・・理想への手段方法・・治病健康法」と説明している。これは一番わかりやすいと思う。
縁起とは「種々の条件によって現象が起こる起こり方の原理」とある。「現象は無常であり、常に生滅変化するものであるが、その変化は無軌道的なものでなく、一定の条件のもとでは一定の動きかたをするものであるとして、その動きの法則を縁起という。」とある。
日本語における「縁起」は仏教本来の意味の縁起が転訛したものであって、「縁起」という仏教本来の意味を理解していないと仏教という「人間の学」の入口がわからないと思う。
声を出して一心不乱に『般若心経』を唱えれば、自ずから自然に自分自身が宇宙の一部であるような気持ちになる。そういう中で自分自身は日常の暮らしや起居動作の中に何かの原因を作っている。しかも日常の言語動作を自分自身はいちいち細かく意識しながら行っているわけではなく、無意識のうちに言語動作していることのほうが圧倒的に多い。人はそれを習慣で行ったり、生まれつきの性格に起因するものであると言ったりするだろう。つまり、私は自分自身のことを判っているようで、実は判っていないのだ。判っている部分はごく限られた小さなもので、殆ど判っていないのだ。自分が無知であることを知る。
長崎県知事も町田市長も民主党が応援する候補が大差で敗れた。それでも小沢氏は「国民は(自分のことを)理解してくれる。」と言っている。「国民の目線」と言いながら実際の行動の結果は「国民の(自分自身気がつかない心のうち)の願いに外れるもの」になる。
政治家は「独善的」になり、「自分の理想」を、何が何でも実現させることに「生き甲斐」を感じる者であるのかもしれない。しかし「うちに孕んだ矛盾」はいずれはじける。

2010年2月22日月曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(31(20100222)

 日本人の起源について講演があって会場には入りきれないほどの聴講者が集まったという。テレビのニュース報道でインタヴューを受けた聴講者の一人が興奮気味に、「これまで我々日本人が方々から渡ってきたということを知らなかった」と話していた。日本人の祖先で東北以北に人々は北方から渡ってきている。またオーストラリアで発見されたキーロー人は日本人の祖先(縄文人)であるという。(関連記事:2009117日土曜日、「日本人の起源とヤマト王権(その1)(20091107)
http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2009/11/20091107-newton-5-4-1-4-dna-2000-6800.html

 バンクーバーオリンピックで高橋大輔が銅メダルを獲得した。女子カーリングはイギリスに114という大差で勝ち22敗となった。女子カーリングの選手たちは‘やまとなでしこ’たちである。男子選手たちは‘さむらい’である。そのように特徴づけられる若者たちの何千年も昔の遠い先祖は、あちこちからこの日本列島に辿りついた人々である。

 朗読の会に入っているある女性から、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」の吟詠をテープに録音して欲しいと頼まれた。この吟詠は昔習ったことがあり、その女性にも一度教えたことがある。今改めて詩吟用の楽器を弾きながら吟じてみると、この齢まで年数を重ねた思いをこめて新たな気分で‘語り’として、思いをこめて吟じることが出来る。

 その詩の中で特に好きな部分は「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニイレズニ ヨクミキキシ ワカリ ソシテワスレズ」という部分である。この詩の吟詠を何度も繰り返して練習し、気分が乗り、良くできるようになったところでテープに録音し、依頼主のその女性にプレゼントする。詩吟を習いにきている人たちにも、その吟詠を聴いてもらうことが楽しみである。日本には独特の上品な文化がある。詩吟もその一つである。

 この日本列島に辿りついたわれわれの祖先は、混血し、年月を重ね、若者の‘さむらい’と‘やまとなでしこ’に、あるいは男子の着物と女子の着物に観ることができるような、上品な文化を築き上げてきた。日本の文化は世界的にみて特異である。浮沈空母のようなこの日本列島にも過去に何度か近隣の大国から攻め込まれたことがあったが、民族として滅びることもなくこれまで存続してきて、遠い昔から営々と今の日本を作ってきたのだ。メダルを取った選手が肩に掲げる白地に赤い日の丸の旗は、そのすべての象徴である。

 オリンピックで活躍する選手たちにテレビの前で声援を送っている老いた人たちはやがてその生涯を閉じる。選手たちもまた齢を重ねて行く。それが人生である。

第十八章「汚れ」を続ける。

237 汝の生涯は終りに近づいた。汝は、閻魔王の近くにおもむいた。汝には、みちすがら休らう宿もなく、旅の資糧(かて)もない。
238 だから、自己のよりどころをつくれ。すみやかに努めよ。賢明であれ。汚(けが)れをはらい、罪過(つみとが)がなければ、汝はもはや生と老いとに近づかないであろう。

2010年2月21日日曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(30(20100221)

2歳の自分たちの子供を虐待して死亡させた35歳の夫婦が裁判員裁判にかけられた。その虐待は、これが人のすることかと思うほど残酷なものであった。その様子はここに書くに忍びない。死んだこどもの顔を「安らかな顔だった。あれでよかった。」と件の母親は言ったという。弁護士はこの夫婦が「反省している」と弁護した。反省ですまされることではない。この夫婦はそれぞれ人間の顔をしてはいるが、犬畜生にも劣る‘生き物’である。
この夫婦はそれぞれ子供の時、親から虐待を受けていたのであろう。その親も子供のとき親から冷たく扱われていたのであろう。子供を虐待し死亡させた親は、次の世において最も苦しむところに転生して生まれてくることだろう。
バンクーバーで行われている冬期オリンピックでは、500mスピードスケートで長島圭一郎が銀、加藤条治が銅メダルを取った。フィギュアスケートショートプログラムで高橋大輔が3位に、織田信成が4位になり、小塚崇彦は8位につけた。女子カーリングではアメリカに勝ったがカナダには負けた。明日中国と対戦する。スノーボードでは服装のことで開会式に出ることが出来なかった国母和宏が大技で挑んだが最後の着地で痛恨の失敗をしてしまった。スプリントでは善戦するも準決勝進出はならなった。これから女子フィギュアに浅田真央や安藤美姫らにメダルの期待がかかる。オリンピックの大舞台で若者が世界の頂点を目指して技を競い合っている。
人の一生は様々である。罪を犯す若者がいる一方で自分を鍛え、技を磨き、競技を観る人々に感動を与える若者がいる。その両者の何処が違うかと言うと、罪を犯す者は自分が満たされない原因を他に求めている。自分自身を強固な拠りどころにしていない。一方、スポーツ選手は競技に勝つために自分自身を知りつくし、自分の弱点を克服するため考え、弱点を補う努力をし、自分の能力の限界まで力を発揮するようにしている。
ブッダは「自分を洲とし、自分を拠りどころとし、他を拠りどころとしてはならない。」と繰り返し言っておられる。罪を犯す者は自分が拠って立つ洲にはならず、ものごとがうまく行かない原因を他に転嫁し、他を拠りどころとしている。要するになんでも人のせいにするのである。悪事を正当化するための理屈を作るのである。
民主党政権で子ども手当が支給されるが、給食費を払わない人に子ども手当を出すことについて議論された。車を持ち、携帯電話を持ち、月々相当な費用を払っている人が「給食の内容がよくないから払わない。」と言って払わず、子供につらい思いをさせている。

235 汝はいまや枯葉のようなものである。閻魔王の従卒もまた汝に近づいた。汝はいま死出の門路に立っている。しかし汝には旅の資糧(かて)さえも存在しない。
236 だから、自己のよりどころをつくれ。すみやかに努めよ。賢明であれ。汚(けが)れをはらい、罪過(つみとが)がなければ、天の尊い処に至るであろう。
この二つの詩は第十八章「汚れ」の冒頭にあるブッダのことばである。

2010年2月20日土曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(29(20100220)

 昨日はブッダ「真理のことば」第十六章で次の一つを飛ばした。この詩は修行者が最終目標にすべき詩であると思われる。男のような凡人は出家までして修行を積もうとは思わない。73歳にもなろうとしてもである。福井県の永平寺で修業を積む雲水たちは若い時から出家して修行を積んで行こうとする人たちである。その中には一生妻帯せず修行一筋に生涯を終える聖者の域に達する修行者もいるであろう。

 前にも書いた(関連記事:2010213日土曜日、「ブッダ「真理のことば」を学ぶ(22(20100213)」)が、僧または僧伽とは、そのような聖者が5人または5人以上の集団のことを言うということ知った。男はその意味について考えてみた。

 その一つは、5人または5人以上の集団であれば、霊的な世界の中であらゆる悪や誘惑を寄せ付けないのだと思う。霊的な世界では男のような凡人が決して知り得ない‘不思議な’ことがあるのだ。

 キリスト教の聖書には、「イエススは悪魔から誘惑を受けるため、聖霊に導かれて荒れ野に行った。そして四十日間、昼も夜も断食した後、飢えてしまった。すると悪魔が誘惑しようとやって来て、・・」(マタイオスによる福音)とある。夢窓国師「夢中問答集」(川瀬一馬校注・訳、講談社学術文庫)には、「仏法を行ずる人、ややもすれば魔道に入ると申すことは、いかなる故ぞや。」という足利直義の問いに対して、夢窓国師は「仏道の障りとなる者をば、惣(すべ)て魔業(まごう)と名づく。・・(略)・・魔王・魔民等の、外より来りて行者を悩ますをば、外魔となづく。その魔王は欲界の第六天にあり。これを天魔と号せり。・・(略)・・魔は皆飛行(ひぎょう)自在を得て、身より光を放ち、過去未来の事を知りて、仏菩薩の形を現じ、法門を説くこと、弁論とどこほりなし。(後略)」と答えている。

 オウム真理教では多くの秀才が道を間違って殺人の罪を犯した。人智を超えた、目には見えない力が、無防備な愚かな人々を罪に追いやるのかもしれない。

 5人または5人以上の聖者の集団を僧または僧伽というもう一つの意味は、5人または5人以上聖者がまとまれば、相互に励まし合って聖者自身の修行に怠りがないのではないかと思う。何れにせよ、「僧」が「仏法僧」の三宝の一つであり、僧侶一人を「僧」と言うのは間違っているのである。「僧」は、加持祈祷においても不思議な霊力を顕すのだろう。一人の出家修行者或いは在家修行者はまだそのような霊力は持ち得ないのだ。

218 ことばで説き得ないもの(=ニルヴァーナ)に達しようとする志を起こし、意(おもい)はみたされ、諸の愛欲に心の礙(さまた)げられることのない人は、<流れを上(のぼ)る者と呼ばれる。

訳注に「流れを上る者」とは、「パーリ文注解によると「無煩天(aviha)に生れて、そこから出発して、転生してアカニタ(Akanittha)天に行く人である。」」とある。

2010年2月19日金曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(28(20100219)

 15日、昨日は良かったが今日はまた寒い。バンクーバー冬期オリンピックで上村愛子選手は惜しくも4位に終わった。それでもベストを尽くし、昨年よりは順位が上がった。毎年一段づつ順位が上がったことを彼女は自分自身で可笑しがりながらも、予選第一位で最後に滑ったアメリカの選手の滑りに感嘆していた。

 スノーボードの国母選手が今の若者の服装・髪型で物議をかもし、選手団長橋本聖子氏は彼を入場行進に出さなかった。男はこの決定を正しいと思う。テレビであるキャスターが「‘He is a good sports. と言う場合、‘彼はグッド・スポーツマンである’という意味だ。西欧では子供の時からスポーツする人の態度について教え込まれる。」と言っていた。近頃の若い人たちは文字離れが進み、選手規程を渡されても読まない人が多いらしい。

 先般テレビ中継で観た衆議院予算委員会集中審議でも指摘があったが、国会議員になって渡される手帳に、憲法を初め諸規程が書かれているが、読まない議員が殆どのようである。女房は「家庭教育がなっていないものね。先ずは家庭教育よ。」と憤慨する。今の若者の親たちの世代を育てた年寄りたちが、「教えざるの罪」を犯しているのだ。

 女房の体調不良は徐々に回復の兆しが見えて来た。「田舎に帰らなければならない」という精神的負担を無くし、十分な休養がとれる環境を作って休養させ、近くの内科の先生に処方してもらった漢方薬と、男がテレビショッピングで購入した山田養蜂のロイヤルゼリーの服用などで、身体に欠乏していたかもしれない各種微小物質を補なうようにした。

 男自身、この間の年一回の健康診断で「コレステロール値が高い、尿酸値が高い。肝脂肪あり、大動脈石灰化などの診断が出ている。検査結果のデータは、人間という‘機械’の作動状態を反映している。男は自分自身の身体(=‘機械’)のメンテナンスもしながら、女房の身体(=‘機械’)のメンテナンスもしなければならない。そのように気をつけて努力をしても、‘機械’の経年劣化は防ぎようもないのだ。そして‘あの世’に近づく。

ブッダ「真理のことば」
217 徳行と見識をそなえ、法(のり)にしたがって生き、真実を語り、自分のなすべきことを行う人は、人々から愛される。
219 久しく旅に出ていた人が遠方から無事に帰って来たならば、親戚・友人・親友たちはかれが帰ってきたのを祝う。
220 そのように善いことをしてこの世からあの世に行った人を善業が迎え受ける。親戚が愛する人が帰ってきたのを迎え受けるように。

郷里の中学校時代の同級生たちは、遠方に住んでいる級友のことを思って同級会を企画してくれた。男は老母の介護のため女房と一緒にちょくちょく帰郷していて、そのとき会う友人は何人かいるが、同級会では47年間も会っていない級友も会えるかもしれない。

2010年2月18日木曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(27(20100218)

 男は昭和28年に中学校を卒業した。郷里の中学校の昭和28年卒業の同級生たちが別府の温泉で一泊する同級会を企画し、東京や千葉など遠くに住んでいる級友に声をかけ、47年ぶりに会うことになった。卒業以来一度も会ったことがない級友たちに会うかもしれない。

 実は50歳のとき7組まであった全クラスを通じての同級会が行われたことがあった。そのときは皆まだ若く生き生きとしていたが、今度は73歳になる。往時の女子生徒は白髪の婆さんになっているし、男子生徒は歯が抜けた爺さんも多いことだろう。幸い男はまだ全部親から貰った歯が残っている。歯科医が驚いて「うーン」とうなっていたほどである。

 男はANAマイレージカードのメンバーになっているので航空券はインターネットで購入する。同級会が行われる4月の航空券は半額以下の価格ほどの求めることができる。しかも座席指定もでき、インターネットで購入する場合に割引もある。空港で航空券を買う必要はなく、ゲートに入る時このカードを装置にかざすだけでよい。男の齢でそのようなことができる人はそう多くはいない。

 この便利さは、逆に損なこともある。郷里で法事があるため予め航空券を買っていたが、その数日前に親戚の人が亡くなったので葬式にも出なければならなくなった。そこで買っておいた航空券をキャンセルしなければならなくなり、キャンセル料を取られた。ところが女房が慢性疲労症候群のような状況になり、結局葬式にも法事にも出ることが出来なくなり、航空券と‘じゃらん’で予約していたホテル代も50%のキャンセル料を取られることになった。インターネットは便利で得することも多いが、損もすることもある。時間のスケールで見れば差引ゼロのようである。

 人生も同様である。同程度の人間はある時期羽振りがよくてもある時期に落ち込みがあり、時間軸で平均すると良くも悪くもない平凡な暮らしが続く者とたいして変わらず、皆ちょぼちょぼである。棺桶に片足を突っ込むとき、「よい人生だった」とにこっと笑える者は、ある時期、羽振りがよく、優越感を持っていた者よりも幸せである。

ブッダ「真理のことば」第十六章のつづき、

215 欲情から憂いが生じ、欲情から恐れが生じる。欲情を離れたならば、憂いは存しない。どうして恐れることがあろうか。

児童買春で捕まった60前の教師がいた。自分の娘のような女の子を弄び、自分の人生を台無しにした。家族もいるであろうに、妻や子供たちはどんなに嘆き悲しんでいることか。後悔先に立たずである。彼は家族はいない独身者かもしれないが・・。
しかし当の本人は捕まらないと思っていただろうし、そのような罪を犯す前に自分の行動にいろいろ理由をつけて正当化していたことだろう。しかしいろいろ理由を見つけて正当化しようとしても、元々無理なことなのである。件の教師はそのことに気がつかなかった。

2010年2月17日水曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(26(20100217)

 立春は過ぎたのに今日(13日)も寒い日である。この日本列島に寒気団が居座っていて長期にわたり寒い日が続いている。とは言っても一頃のような冬の感じはしない。雪も極めて少ない。しかし裏日本では豪雪である。ニューヨークもヨーロッパも同様である。問題は冬期にときどき小春日和のような暖かい日があったりして、気温の変化が大きいことである。やはり、異常気象なのだろう。

 このブログが公開されるころ、国内政治は大きく変わっているかもしれない。鳩山首相のご母堂が首相の実弟・邦夫氏に言ったことが国会の集中審議で与謝野氏によって取り上げられ、首相は気色ばんで答弁したが、ご母堂が言ったことは邦夫氏によって事実であることが報道された。ただし、ご母堂への資金提供要請を鳩山首相が直接行ったか、秘書が行ったかは明確ではない。好意的に思えば、多分、秘書とご母堂との間で直接話が出たのだろうと推測する。秘書たちも自分たちの生活維持のため、いろいろ金の工面をしただろう。

 女房の帯状疱疹は完治しつつあるが、「疲れやすい」「脱力感がある」という症状が続いている。これは帯状疱疹を引き起こした要因であろうが、帯状疱疹の症状ではない。男は少し心配であるので、女房と一緒に近くのかかりつけの先生のところに、今日は半日の診療であるが相談に行き、血液検査を受けさせ、プラセンタの注射をしてもらった。血球数などのデータはすぐ出た。異常ない。あとは外部に委託されて後日微細にわたるデータを見ることができる。ついでに各種腫瘍マーカーも依頼しておいた。これで何か異常が発見されれば、精密検査を受けることになる。そこまで行かないことを祈る。

ブッダ「真理のことば」の続きである。
213 愛情から憂いが生じ、快楽から恐れが生ずる。愛情を離れたならば憂いは生じない。どうして恐れることがあろうか?

 男が女房の健康のことを心配するのは「愛情」のためである。もし、女房の健康管理に夫として不十分なことがあり、それが元で手当てが遅れたりしたら後悔すると男は思う。この気持ちから男は「離れる」ことはできない。「生きるも苦」「老いるも苦」「病むのも苦」である。どうせ「苦」から離れることができないのなら、徹底的に「苦」と付き合うしかない。ブッダが言っておられることは真理である。いずれその時がくるだろう。

214 快楽から憂いが生じ、快楽から恐れが生じる。快楽を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?

 生身の人間は、「快楽」を求める気持ちを捨て去ることはどうしてもできない。しかし、欲望むき出しの快楽追求はしないように自制することはできる。それができない人も多いが。

2010年2月16日火曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(25(20100216)

 ブッダ「真理のことば」第十六章は「愛するもの」という題である。男はこれを読んで、正直のところ世俗の人間にとって「一番難しいこと」だと思った。「愛する人をつくるな」と言われても、一時的な喜びかもしれないが、人は誰かを愛し、子供を授かり、家族を持ち、家族を愛し、愛されることで喜びがあるのだから・・・。
でも男は、これらのブッダのことばは、「他を拠りどころとせず、自分を拠りどころとする」生き方の覚悟について教えているのだと思う。「苦しみ」の根源について教えているのだと思う。「人は苦しみから決して抜けられず、一時的な楽しみも結局は苦しみの原因になるのだ」ということを教えているのだと思う。

210 愛する人に会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。
211 それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わざわいの絆(きずな)は存在しない。
212 愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる。愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?

 キリスト教の聖書には、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。それは、あなたたちの天の父の子供となるためである。」と書かれている。

 ブッダのことばとの根本的な違いは、約2500年前のブッダは「自分を拠りどころとし他を拠りどころとするな。」と教えるが、約2000年前のキリストは「天の父の子供」となることを教えることにある。つまり、キリストは、人は「天の神様にすがりなさい。」と教えるが、ブッダは、人は「自分自身を拠りどころにしなさい。他者に頼るな。」と教えている。

 自分自身が拠りどころである仏教の世界では、宗派間、宗教間で殺し合うような争いは起こらない。仏教はまさしく「人間の学」である。人個々それぞれの多様性の中、個々それぞれの「生き方の学」である。

 ブッダはこの世での生き方次第であの世でどうなるか説いておられる。故に男は、人は自分の「あの世」のことを常に念頭におきながら「この世」で生きることも、老いることも、病の床に臥すことも、死ぬこともすべて苦しみであり、怨みや憎しみに会う苦しみや、愛する人と別離する苦しみや、自分が求めていることが得られない苦しみや、苦しみから逃れようとして一時的な快楽を得ても結局は苦しむことになるということ、要するに人は苦しみの中にあるということを知って、それをありのままに受け入れ、真面目に、徳を高めるように努力することが重要であると思っている。

2010年2月15日月曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(24(20100215)

205 孤独(ひとり)の味、心の安らいの味をあじわったならば、恐れも無く、罪過(つみとが)も無くなる。真理の味をあじわいながら。
206 もろもろの聖者に会うのは善いことである。かれらと共に住むのはつねに楽しい。愚かなる者どもに会わないならば、心はつねに楽しいであろう。
207 愚人とともに歩む人は長い道のりにわたって憂いがある。愚人と共に住むのは、つねにつらいことである。仇敵とともに住むように。
心ある人と共に住むのは楽しい。親族に出会うように。
208 よく気をつけていて、明らかな智慧あり、学ぶところ多く、忍耐づよく、戒めをまもる、そのような立派な聖者・善き人、智慧ある人に親しめよ。月がもろもろの星の進む道にしたがうように。

ブッダ「真理のことば」6番目の詩に「われわれは、ここにあって死ぬはずのものである。」と覚悟をしよう。このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。」がある。(関連記事:「2010125日月曜日、ブッダ「真理のことば」を学ぶ(3)(20100125)」)
「一日を一生」とし(西行の作詩『至善』)、関連記事:「20091210日木曜日、老楽は唯至善を行うにあり(20091210)」)、「ここにあって死ぬはずのものである。」という覚悟があれば、人は日常のすべての所作にその意味を感じることができる、と男は思う。
譬えて言えば、人の生体を構成する細胞のように、宇宙の中の星々は宇宙の細胞である。人間は細胞を構成する最小単位の物である。その一つの存在が人間である。これらは時間の経過とともに生成消滅を繰り返している。人間は大宇宙と言うある意味で‘生命体’のようなものの中の微小な構成単位のような存在である。人の一生は、大宇宙の活動に組み込まれたものである。そのように考えると、「孤独」は安らいの味の一つである。そう思えば、淋しいことでもなんでもなく、楽しいことである。理屈っぽいと言われそうであるが男はそう考える。ブッダが説いておられる内容はもともと理屈っぽいものを、「真理のことば」として平易に語られているのだ。男はそう理解している。
そのような理解は、ブッダの深遠な智慧に遠く及ばないものである。一生勉強し、ブッダの最高レベルの智慧を学ぶことができるように努力しなければならない。それを僧のもとで学ぶことが最も楽しいことに違いないが、煩悩多い男は人に理屈っぽいと思われようと、なんと言われようと、このブログに書いているような方法で智慧を学んでゆこうと思う。
ところで、「幸福の科学」という宗教団体が「幸福党」という政党を立て、国会議員を出そうと頑張っている。大川隆法氏は宗教家でも何でもない。勿論206番目の詩の「もろもろの聖者」のカテゴリーには入らない。言うなれば男同様の俗人である。男は、彼が俗人として政党の総帥になると言うのであれば理解できるが、人々はどう見ているであろうか?

2010年2月14日日曜日

 ブッダ「真理のことば」を学ぶ(23(20100214)

 ブッダ「真理のことば」第十五章は「楽しみ」である。人は限られた人生を楽しく生きたいと願う。楽しみのため、大いに稼ぎ、富を蓄え、優越を味わいながらこの浮世を楽しみたいと願う。男もかつて金銭的な、物質的な豊かさに憧れ、夢を追い続け、もがいていた時代があった。晩節を汚し、新聞やテレビ報道に不名誉な登場をする男たちがいる。昨今は40代前後の女がお金欲しさに何人もの男を騙し、殺し、ニュースになっている。皆、はかない、幻のような‘富’を追い求めている。

 男はこの齢になってようやく煩悩から遠ざかりつつある。良寛の作詩『意(こころ)に可なり』『無心』などが大好きである。良寛は今の新潟県西蒲原郡国上(くにかみ)山の国上(こくじょう)寺境内にあった五合庵に47歳のときから13年間住んだが、良寛が70歳のとき29歳年下の貞信尼との間で恋歌を贈答し、その貞信尼に看取られつつ74歳で没している。男は、良寛は貞信尼との間で本当の恋をしたのではないかと思う。

 男も女も、最期までそれぞれの魅力を保ち続けるべきである、と男は考えている。その理由は、それこそが人生を最期までよりいきいき生きる力の源泉であると確信するからである。いつの世も真理は変わらない。ブッダの言葉に耳を傾けよう。204の言葉にある‘ニルヴァーナ’の境地は、座禅と深い瞑想の結果得られるものだと思うが、男はまだそれを試す気にはなっていない。いよいよ最期が近づいたな、と思ったときそれを試そうと思う。

197 怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むことなく、われらは大いに楽しく生きよう。怨みをもっている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは暮らしていこう。
198 悩める人々のあいだにあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。悩める人々のあいだにあって、悩みなく暮らそう。
199 貪(むさぼ)っている人々のあいだにあって、患(わずら)い無く、大いに楽しく生きよう。貪(むさぼ)っている人々のあいだにあって、貪らないで暮らそう。
200 われらは一物をも所有していない。大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食(は)む者となろう。
201 勝利からは怨みが起る。敗れた人は苦しんで臥(ふ)す。勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、安らかに臥す。
202 愛欲にひとしい火は存在しない。ばくちに負けるとしても、憎悪にひとしい不運は存在しない。
このかりそめの身にひとしい苦しみは存在しない。やすらぎにまさる楽しみは存在しない。
203 飢えは最大の病であり、形成された存在(=わが身)は最もひどい苦しみである。このことわりをあるがままに知ったならば、ニルヴァーナという最上の楽しみがある。
204 健康は最高の利得であり、満足は最上の宝である。信頼は最高の知己であり、ニルヴァーナは最上の楽しみである。

2010年2月13日土曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(22(20100213)

 ブッダ「真理のことば」第十四章を続ける。

190191 さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、正しい知識をもって、四つの尊い真理を見る。すなわち(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、苦しみの超克と、(4)苦しみの終滅(おわり)におもむく八つの尊い道(八聖道(はっしょうどう)とを(見る)。
192 これは安らかなよりどころである。これは最上のよりどころである。このよりどころにたよってあらゆる苦悩から免(まぬが)れる。

 訳注によれば、「「聖者の集い(=僧)」は、原語sanghaを音写して「僧」、「僧伽」という。五人もしくは五人以上の組織のある団体をいう。わが国で「一人の僧」などといって個々の僧侶をさしていうのは原義からの転用であって、この場合には適合しない。」とある。男は「僧」とは一人の僧でもそのように言うと思っていたが、五人または五人以上の(聖者の)団体でないと「僧」とは言わないのだということを初めて知った。「出家者」は「僧」ではないのだ。街で読経しながら乞食をしている人は「僧」ではないのだ。まして「一人の学問僧」などというのも間違っているのだ。「お坊さん」というならまだしも・・。

 「帰依」は「仏法僧」の三宝に対する帰依であって、真理を知るための準備段階である。「四つの尊い真理」は漢訳で「苦、集、滅、道」と示されている。「八聖道」は、①正しい見解(正見)、②正しい思い(正思)、③正しいことば(正語)、④正しい行為(正業)、⑤正しい生活(正命)、⑥正しい努力(正精進)、⑦正しい気づかい(正念)、⑧正しい心のおちつき(正定)である。『仏教の基礎知識』『仏教要語の基礎知識』(いずれも水野弘元著、春秋社刊)に詳しく書かれている。男は、「法」とはこの真理を分析し、再構築した体系であり、古来、多数の「聖者たち=僧」が説いた教え(=お経)であると理解する。

 男も女房も朝のNHK番組のホームドラマは面白くないのでこれが始まるとすぐ民放に切り替え、注目する放送があれば視聴し、なければスイッチを切ることにしている。今朝、東京の新葛飾病院の清水陽一院長のことが放映されていた。清水先生はこの病院を経営中大腸がんに罹り手術を受け、ご自分の死と向き合うことになった。それを契機に、患者・家族・人生の全体を考えるようになり、その患者さんの最期まで看るようになったという。

 男はこの先生はまさしくニルヴァーナの近くにおられるお方であると思った。素晴らしい!このようなことは、人の役に立つ技ももっていない男にはできないことである。男は子供の頃将来医者になりたいと思ったことがあった。来世ではきっと、と思う。
この病院は「あそこに入るとみな死ぬ。」と噂されていた病院であった由。清水先生が院長として請われこの病院にやってきて、その病院を地域の拠点病院にまで仕上げた。彼のスローガンは医療事故が起きても「①逃げない。②ごまかさない。③嘘をつかない。」をモットーにして誠実に対応しているので、これまで訴訟は起きたことがないという。