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2016年6月16日木曜日

20160617「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(最終章)


 国の為、社会の為、わが身を捧げて活動しようと志す者は、自分が幼少の頃より徳の高い環境の中で成長してきたか、特に父親または母親からどのような影響を受けて育ったのか、自ら省みることが重要である。人々が自分たちの指導者を選ぶとき、その候補者にどういう背景があるのか良く知る必要がある。

 「武士道」は、政治家・官僚・軍人(自衛官)の他、警察官・海上保安官・消防官等国家や社会の中で治安維持・安全・監視・監督などの役割を担う「官」のつく職業の人や、そういう職業につく人の教育指導に当たる人が心得るべき道である。これらの人たちの中には、立派な心がけの方たちが沢山いるが、そういう心がけが乏しい方もいる。

 上述のことが多くの日本人の間で何か暗黙の了解となっているならば、それはわが国の文化の一側面として非常に素晴らしいことであるが、そういうことは全く無い。かつて在った「教育勅語」のような、当時それを暗唱することが求められていたほど日本人の心に浸透していた規範的なものも全く無い。かろうじて皇室や国旗や国歌が、「自分は日本人である」ということを気付かせる機能を果たしているに過ぎないが、日教組に所属する教師たちの中には、それさえも否定する行動を示す人たちがいる。

 新渡戸稲造『武士道』奈良本辰也訳・解説(三笠書房刊)には、“仏教は武士道に、運命に対する安らかな信頼の感覚、不可避なものへの静かな服従、危険や災難を目前にしたときの禁欲的な平静さ、生への侮蔑、死への親近感などをもたらした”と書かれている。大災害が起きたとき、多くの日本人は自然にそのような行動をとっている。

 青木照夫著『葉隠れの知恵』(三笠書房刊)“武士道といふは、死ぬ事と見附けたり”と「捨て身の章」冒頭に書かれている。政治家の中には、そのような心がけが無い人も見かける。

 仏教は「生まれかわり」を肯定している。『人間(ひと)は死んでもまた生き続ける』(本願寺法主 親鸞聖人直系の25世 大谷暢順著、幻冬舎刊)には“私はフランスで何度も「仏教はいいですね、輪廻転生という思想があるから」とうらやましがられました。キリスト教の場合は、人生は一度きりで、死者は最後の審判の日に復活して神の裁きを受け、神の国に迎え入れられるか、地獄に落ちるかのどちらかとされています。イスラム教もほぼ同じで、ユダヤ教の殆どの宗派は、死者は土にかえると考えられているそうです”と書かれている。

 自衛官の服務の宣誓は、「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえることを誓います」という言葉で締めくくられている。先の戦争では、兵士たちは来世に生きることを信じ、靖国神社で会うことを信じて死んでいった。

 さて今度参議院議員の半数が改選される。野党は共産党も一緒になって連帯を組み、与党に過半数の議席を与えないように行動している。

 そのスローガンの一つに「安全保障関連法の廃止」が掲げられている。その理由は、同法では、「日本は戦争に巻き込まれる」というものである。彼らには武士の魂は無いように見受けられる。彼らは「国の為、社会の為」というよりも、自分たちだけの為に行動しているように見える。

 共産党の中枢の幹部は、我が国で科学的社会主義を実行したいと考えているに違いない。科学的社会主義の思想と仏教の精神や武士道の精神に基づく思想とは、全く相反するものである。科学的社会主義では皇室も神社や仏閣や、「南無阿弥陀仏」と書かれた紙や、阿弥陀如来が描かれた紙や、仏像なども否定される。科学的社会主義の実現の過程で大衆蜂起や武力による暴力的な革命も起きる可能性はある。

 マスメディアは公正中立の立場で、テレビの視聴者や新聞の購読者に対して正しい情報を提供するような姿勢であるべきである。

近年SNSが発達しているので、一般大衆も各政党やマスメディアの動きについて情報を共有するような行動を起こすことが期待される。国の為、社会のための行動は、一部の人・組織・団体等に任せきりではなく、全国民個々もそれぞれの手段・方法で連帯して行うようになることだろう。そうなれば、それはマスメディアに対抗する組織的なものとなるだろう。


      (終わり)

2016年6月14日火曜日

20160614「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(26)―― ASD(自閉症スペクトラム障害) ―


 ASD患者には、「他者の視点を想像することが難しい」「その場の雰囲気を理解することが難しい」「行間を読むことが難しい」などの症状が見られるということである。これは、言うなれば相手の「意識」を感受する能力が健常者に比べ劣っているということである。例えば職場で上司から「とりあえずこれをやっておいてくれ」と言われたとき、ASD患者はその「とりあえず」の意味を理解することができず、戸惑うそうである。

 ASD患者の脳の活動を磁気センサーで観察した結果では、左前脳と右後脳の活動が健常者に比べて弱いそうである。これは、両脳の間を繋いでいる神経細胞のシグナル伝達が健常者に比べて極めて乏しいということであろう。

 「他者の視点を想像することが難しい」ということは、他者の「意識」を感受する力が乏しいということである。私は、「意識」を未知の「波動」とするならば、それは電波や光のように光源あるいは電波発信源から発する波動を受け取る「装置」のような働きをするものが人間の脳に備わっていて、それによってその「意識」を受け取ることができると考えている。

 政治家で公私混同・私利私欲だと世間から批判を受けている人は、そのような「意識の波動」を感受する「装置」のフィルターが働いていて、自分自身ではそのような批判が何故自分に向けられているのか気付くことができないため、なかなか理解できないのだろう。

 現代の科学では「意識」は未だ解明されていず、今後100年経っても解明はできないだろうと言われている。その「意識の波動」は時間と空間を超越し、広大無辺・自由自在・融通無碍に伝搬している、と私は考える。

 釈尊(お釈迦さま)の尊い教えや、普遍仏教の開祖たちの教えや、昔の高僧の教えは文字によって伝えられている。「意識」を上述のように考えると、「意識の波動」を受信することを自ら「意識する」者は、釈尊や普遍仏教の開祖や、昔の高僧や、イエス・キリストや、マタイやルカやパウロの「意識」を感受することができるに違いない、と私は思っている。

 日本ではASD患者が100万人ぐらい居るそうである。人は何故ASD患者としてこの世に生まれ出るのだろうか?それは親から子へと核DNA遺伝子がコピーされるとき、元々の遺伝子に異常があったためなのか?或は遺伝子の突然変異によるものなのか?或は遺伝子の発現において何かエピジェネティックな修飾が行われたためなのか?

 私は、「この世」に生きている者は、誰か過去に生きた者の「あの世」を生きている、と思っている。また、私は、過去に生きた人の「意識」が「この世」に生きている者の「意識」に何らかの作用を及ぼしている、と思っている。しかしそのような発想や実感はその人限りのことであって、他人にいくら説明しても極めて理解され難いことである。

ここで重要なことは、常にプラス思考で、物事を多面的に捉え、かつ誠実・謙虚な気持ちで問題に対処すべきである、ということである。何故なら、傍から見てとても不憫・不幸な状況にあるような人でも、当の本人は心の持ち方次第で幸福でもあり、不幸でもあるからである。


そのような「当の本人」であることについても、「当の本人」を慈しみの眼差しで見つめている「意識の波動」が及んでいるに違いない、と私は思っている。その波動は過去に生きた人が発している波動であったり、今を生きている人が発している波動であったりするであろう。「当の本人」の幸・不幸は、そのような波動を感受する「当の本人」の意識次第である、と私は思っている。

2016年6月4日土曜日

20160604「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(25)―― ‘気’について ――


 植芝吉祥丸著『合気道の心』(講談社刊)に“(合気道)開祖がそのような「人間と宇宙との一体化」および「変化自在なる呼吸力の発現」を最重視した理由は、要するに≪気≫の本質に合気道の立場から迫る場合、そのことがまたもっとも合気道の本質とも合致すると考えたからであるにちがいない。合気道はこの開祖の考えかたに立ちながら≪気≫の課題に取り組み、そしてその原点から今後さらに新たなる≪気≫への追及をおこなうべきである”と書かれている。

‘気’について、ウィキペディアにはいろいろな解説が書かれている。その中に「気の問題点」として;
  各分野によって都合の良い解釈がされており、統一した概念がなく、曖昧な存在となっている。
  凝固して可視的な物質という概念もあるが、数値化して測定することができなく、存在を科学的に証明できていない。
  科学的手法で解析された学術論文が皆無である。
などと、書かれている。

 武術において腹の底から出す「エイッ」とか「ヤー」とかいった掛け声は、相手を‘気合い’で圧倒する術として考えられる。実際、そのような気合いによって敵は圧倒され、戦力を削がれるだろう。ところが合気道では一部の指導者を除いてそのような発声による技は観られない。合気道では周囲をはばかって声を出さずに‘気’を出すことが求められているようである。しかし、時には無人の山中において、腹の底から声を出しながら木刀を振ってみたいものだと思う。

 私は‘気’は‘意識’と深い関係があると思う。私は‘意識’というものが量子論により解明されることを期待している。私は分子生物学・進化生物学・遺伝学など生命科学の分野、量子論・宇宙論など自然科学の分野、そして情報通信技術・メディア融合など情報社会学の分野の三分野は、そう遠くない将来、「気の問題点」を解決するだろう、と直感的に思っている。そして私は時々合気道の稽古をしながら、放送大学などでその方面の学問を楽しんでいる。

 意識は時間と空間を超越し、広大無辺に自由自在に融通無碍な存在である。しかし、科学は未だこの意識を解明することができていない。私は、人がそれぞれ自分自身に起きている偶然のできとは、意識の持ち方次第では、それは偶然の出来ごとではなく、起きるべくして起きた必然の出来ごとである、と思っている。そのようにしてしばしば幸運なことが起きている人には、その人が意識せずとも神通力が発揮されているのである、と私は信じている。

 私は年老いて自分の学問の方向を絞り込むことができた。私は私が「この世」でやり残すことを、私の「あの世」で続けたい、と思っている。その「あの世」とは、私が「この世」を去ったあと新たに生まれ出る誰かの生命が生きる世、つまりその人の「この世」である。

 さて、日本はどういう国かと言うと、天皇は皇太子から即位されるとき儀式を経て「天(あめ)から下り」て天皇になられ、崩御されたとき儀式を経て「かむ(神)上がり」されることが、初代神武天皇以来第125代今上天皇までの凡そ2680年も永々と続いて来ている国である。国民もまた国家という組織の一員として、その歴史を営々と紡いで来ている。

 全国各地の城は、何処かの国の支配者の住処のようなものでは無かった。百姓(ひゃくせい)・町民は、その城に主として住み、或いはその城に勤務する人たち、即ち武士階級の人たちとともに、その城を大切にしてきた。だから人々はそれぞれ金を出し合い、地震や戦火で破壊された城を再建した。この度、再度の大地震で被害を受けた熊本城も再び復興の動きがある。日本は何処かの国のように、支配階級が被支配階級を圧迫してきた国とは全く違う。

 この度、自由民主党は「不戦の誓い」を掲げたが、これは全日本国民の願望である。先の大戦では非常に数多の尊い命が戦火に散華した。当時、兵士たちは祖国の永遠の平和・繁栄と父母・兄弟・姉妹・妻子の幸福を願いつつ、「靖国神社で会う」ことに心の安らぎを得ていた。今の日本の平和と繁栄はその人たちの犠牲の賜物である。

 もし、今を生きる日本人が、「自分たちが今在る」意味を理解せずに私利私欲に明け暮れするならば、日本の未来は無くなるであろう。自分が私利私欲に走っていることを自覚せず、生活習慣病のように言動する人が行政単位のリーダーになり、マスメディアもそのことに寛容な姿勢を示すならば、この日本の未来は開けないだろう。

 日本は大学までの教育を無償化し、保育所待機児童は無くし、幼い時から道徳教育を徹底させ、世代が代わっても次から次へと優れたリーダーを産み出すようにし、マスメディアも報道の中心を堅持して何処かの新聞のように偏らず、行政に対する正しいチェック機能と正しい情報を人々に伝えるという二つの役割を果たすようにしなければならない。

 そのようにして日本が世界に向けて正しい‘気’を出し続けるならば、やがてこの地球上から紛争や貧困は無くなるであろう。オバマ大統領が広島平和都市記念碑に献花し、世界に向けて平和を訴えたことは、日本の正しい‘気’が出たということでもあるのである。

関連:20150430安倍首相のアメリカ上下院合同会議における演説に思う。
    http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2015/04/20150430.html

    20150221国家は一つの生物種である (23) ―― セルフアイデンティティ ――
        http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2015/02/20150221-23.html
       


2016年6月2日木曜日

20160602「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(24)―― 量子意識 ――


 私は、「意識(consciousness)」というものについて、次のように考える。
    意識は時間と空間を超越した存在である。
    意識は「送り手(sender)」と「受け手(receiver)」の間で交流する。
    既に生存していない人の意識は、受け手がその意識を受けようと意識すれば、その受け手に伝わる。

以下に、インターネットのウイキペディア(フリー百科事典)から“”で引用する。
量子脳理論(りょうしのうりろん)は、脳のマクロスケールでの振舞い、または意識の問題に、系の持つ量子力学的な性質が深く関わっているとする考え方の総称。心または意識に関する量子力学的アプローチ(Quantum approach to mind/consciousness)、クオンタム・マインド(Quantum mind)、量子意識(Quantum consciousness)などとも言われる。具体的な理論にはいくつかの流派が存在する。

ペンローズ・ハメロフ アプローチ
理論物理学者のロジャー・ペンローズと麻酔科医のスチュワート・ハメロフによって提唱されているアプローチ。二人によって提唱されている意識に関する理論は Orchestrated Objective Reduction Theory(統合された客観収縮理論)、または略して Orch-OR Theory(オーチ・オア・セオリー)と呼ばれる。

意識は何らかの量子過程から生じてくると推測している。ペンローズらの「Orch OR 理論」によれば、意識はニューロンを単位として生じてくるのではなく、微小管と呼ばれる量子過程が起こりやすい構造から生じる。この理論に対しては、現在では懐疑的に考えられているが生物学上の様々な現象が量子論を応用することで説明可能な点から少しずつ立証されていて20年前から唱えられてきたこの説を根本的に否定できた人はいないとハメロフは主張している。

臨死体験の関連性について以下のように推測している。「脳で生まれる意識は宇宙世界で生まれる素粒子より小さい物質であり、重力・空間・時間にとわれない性質を持つため、通常は脳に納まっている」が「体験者の心臓が止まると、意識は脳から出て拡散する。そこで体験者が蘇生した場合は意識は脳に戻り、体験者が蘇生しなければ意識情報は宇宙に在り続ける」あるいは「別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない。」と述べている。

私の母は終戦の翌年、乳癌で死んだが、死ぬ前当時9歳だった私に「(死の床から)起こしておくれ」「東を向けておくれ」「仏壇から線香を持ってきておくれ」「(裏の山に落ち松葉をかき集めに行っている)お父さんを呼んで来ておくれ」と言った。私は母が言うとおりにした。今思えば、母はそのとき、またはその数日前に臨死体験をしていた可能性がある。

私の叔父は、死ぬ4日前と3日前に臨死体験があり、そことを家族に語っていた。私はその家族から聞いたことを記録している。

仏教では前世・現世・来世の因縁を説いている。真宗では絶対の真理である仏の報身仏である阿弥陀如来(阿弥陀仏)を信仰し、これに帰依すれば、現世において既に浄土に住み、来世においても浄土に住むと説いている。「この世」で正しく生きた人は、「あの世」で幸せになれる、しかし「あの世」で本当に幸せになれるかどうかは、その「あの世」での心がけ次第である、と説いている。「あの世」というのは、自分が死んだあと新しい命として生まれかわり、生きる世界である。

核DNA遺伝子による遺伝と、エピジェネティックな修飾による遺伝子の発現は自分の父母、その父母のそれぞれの父母と言うように過去を遡ったとき、その過去から伝わるものである。つまり過去世・現世・来世の三世の因縁は誰にもあるものである。

量子論と意識論は深い関係がありそうである。釈尊(お釈迦さま(Buddha))は、この世・あの世の議論はしてはならないと言われた。不毛な議論をするよりも、先ずは素直に釈尊の教えを信じることが大切である。キリスト教でも神やイエスを信じることが大切である、と説いている。


一方で、人は「自分は何処から来て、何処へ行くのか」知りたいと思っている。私はそのことについて科学的な探求心は必要である、と考える。何故なら、もし釈尊の教えが正しいことを科学的に証明できたら、この世から戦争や悪行が無くなり、全ての人々が平和で幸福に暮らすことが出来るようになるであろう、と考えるからである。

2016年5月26日木曜日

20160526「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(23)―― 幸せな道 ――


 いろいろあって憂鬱な日々を送っていたが大分気分が晴れた。そして今、50年数年前に初めて所帯を持った時のような気分になっていて、穏やかな日々を送っている。

 これまでの長い人生のなかでいろいろ紆余曲折があった。家内のことは完全に理解していたつもりであったが、あるきっかけで過去を顧みる文を何十ページにもわたり書き綴ってみたら、その理解は不十分であったことを初めて知った。

「あるきっかけ」は偶然のことであるが、観方を変えればそれは必然のことになる。それが必然であると認識すれば、自分は正に神通の中の天眼通・他心通の力を出したことになる。「これは決して偶然ではない。これは自分の身に起きるべくして起きた幸運である」と思えば、その幸運は神通力によって得られたものであることになる。

因みに「神通力」について、夢窓国師は武家政治家・足利直義との問答で「得法の人は必ず神通妙用を具足すべしや」の問に対して、「仏法を知らざる天魔外道も、神通をば施す。神通を具せる人なればとて、得法の人とは申すべからず。・・・」と答え、天魔外道の人は漏尽通ができずそれ以外の五通しかないと説いておられる。

 その神通力のうち六通は、天眼通(普通見えないものを見透すこと)、天耳通(普通聴き取ることができない物音を聞き取ること)、他心通(他人の心の中を見抜くこと)、宿妙通(前世のことを忘れないこと)、神境通(空を自在に飛びめぐること)、漏尽通(煩悩を断ち尽くすこと)の六つである。天魔外道の者は、神通のような施しを見せて人々を仲間にしようと誘うが、普遍的な真理の法を体得していず、煩悩を断つこともできない輩である。

 神通はそれを自ら実感するものにしか分らないものである。生まれ替わるとか、この世には居ない遠い過去の人と心を通わせるとかいうような、時間と空間を超えた意識の交流の観念は、その人にしか分らないものである。

 しかし、現実の世界では、その人が自覚していようといまいと、人は神社や仏閣や仏壇や神棚の前で、時間と空間を超えて意識の交流をしている。キリスト教やイスラム教の人でも十字を切ったり、神に礼拝したりして自分が意識する絶対的な‘存在’と意識の交流をしている。それはその人の自己満足の行為に過ぎない、或いは自らを慰める行為に過ぎない、と言ってしまえばそれまでである。

しかし、経験的に言うと、人は「お人好し」と思われるほど素直であった方が幸せであり、また、この世には居ない‘存在’と意識の交流ができていると思っている人は、なお幸せであると思う。

 その幸せは、核DNA遺伝とエピジェネティック遺伝により受け継がれた生来の性質と、生後の教育と、自己研鑽・修養と、見えざる‘お導き’により、もたらされるものである。

輪廻転生を説く仏教の「自力本願」と「他力本願」は、誰一人として同じではない人々を幸せに導く百人百様の方法論であって、どの宗派がベストというものではない。ただ、教育について言えば、まだ素直な子供時代に仏教に親しむように仕向ければ、その子は成長したときより幸せになれるに違いない。


2016年4月28日木曜日

20160428「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(22)―― 「真理」を信じる者は救われる ――


 意識は時空を超えて伝搬する。ただし、その受け手が居なければ伝搬しない。意識が時空を超えて伝搬するかしないかは、その受け手の意識次第である。

 人間(生物学的にはヒト)の体は凡そ260種類・60兆個の細胞で出来ていると言われている。皮膚細胞・骨細胞・神経細胞、生殖細胞など細胞にはその機能ごとにいろいろあるが、細胞の基本構造は皆同じである。個々の細胞はシグナル伝達を行っている。つまり細胞同士はコミュニケーションを行っている。

 組織化された人間の集団においては、個々の人間はカッコつきの‘細胞’のようなものである。組織化された集団の中では、個々の人間は、つまり‘細胞’は互いにコミュニケーションを行っている。ヒトの体のなかでも細胞は互いにシグナル伝達を行っている。

 ヒトとヒトの間でコミュニケーションを行うとき、ヒトの意識が伝搬する。ヒトの場合、あるヒトが書き遺したものでも、それを書いたヒトの意識は後の世に生きるヒトに伝わる。ただしその伝搬は、その受け手の意識次第である。ヒトの意識は時空を超え、時差や受け手の数に無関係に伝わる。先祖が書きのこした内容は、今を生きている親にも子供にも伝わる。ただし、あくまでその親や子供がその先祖を意識しない限り、先祖の意識は伝わらない。

 遺伝学的には子供はその両親から各々半数の遺伝子を受け継ぐ。エピジェネティクス的には親の生き方が遺伝情報の修飾という形でその子供に受け継がれる。つまり、親の形質や性格や知能や判断能力・運動能力などのほか、親の生き方・精神状態などが子供の人生に影響を及ぼす。「駿馬の子は駿馬」「氏より育ち」ということは実際に起きている。

 「この世」は自分の親から上記諸々のものを受け継いで生きる「現世」であるとともに、自分が生まれる以前に亡くなった自分の親族の「あの世」でもある。ただ、自分自身は意識しない限り又は意識できない限り、自分が生まれる以前に亡くなった自分の親族の「あの世」を自分が今生きている、ということは分らない。自分が死んだ場合、自分は誰かに生まれかわるかどうかは、それを信じるか信じないか次第である。誰もそのことを証明することはできない。将来、科学が「意識の波」を証明することを期待するが・・・。

 浄土宗・浄土真宗では、広く遍く世界に行き渡っている「真理」を、人間の姿で表現した「阿弥陀仏・阿弥陀如来」を信じ、清く正しく生きて行くならば、たとえ煩悩の身であっても「この世」で浄土に生き、「あの世」でも浄土に生きることができると説いている。要は信仰次第である。信じる者は救われるのである。
 
 一方で、「この世」で人を殺すとか、物を盗むとか、人を騙すとか、人の身を害するとか、人をいじめるなどの悪行を為した者は、「この世」で修羅や地獄の世界に堕ち、「あの世」で人間に生まれず餓鬼・畜生に生まれかわると説かれている。それを信じない者・信じることが出来ない者は不幸である。


 科学的社会主義と言い、「資本家が労働者を搾取している」と説明して人々を扇動している連中は、現実の社会で才覚ある一介の労働者が会社の経営者になり、大株主になっている人も居る事実を敢えて見ようとはしていない。実際にこの日本においては、極端な貧富の差はなく、富の再配分について常に議論され、決定され実行されている。彼らはその状況に目を背け、自分たちが描く理想の科学的社会の実現に向けて、確固・不動の意志をもって行動している。彼らは「あの世」でももがき、決して浄土に生きることは出来ないであろう。

2016年4月21日木曜日

20160421「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(21)―― 「この世」も「あの世」も「浄土」 ――


 「浄土」とは「五濁(ごじょく)・悪道のない仏・菩薩の住する国」、「五濁」とは「この世が堕落するときに起きる五つの悪い現象」、「菩薩」とは「さとりを求めて修業する人」(いずれも『広辞苑』より引用)である。

五つの悪い現象として『広辞苑』には、①劫濁(飢餓・悪疫・戦争などの災害)、②衆生濁(人々が悪事をはたらくこと)、③煩悩濁(愛欲が盛んで争いが多いこと)、④見濁(正しい教えが衰え不正が栄えること)、⑤命濁(寿命が短いこと)の五つが書かれている。

浄土宗・浄土真宗では、菩薩にならなくても報身仏である阿弥陀如来が人々に救いの手を差し延べて下さっているのであるから、さとりを求めて修業しなくても、即ち「菩薩」になろうと難行苦行をしなくても、阿弥陀如来を信じるならば「この世」が即ち「浄土」であり、阿弥陀如来を信じ切っている人が「あの世」に生まれかわれば、その生まれ変わり先もまた「浄土」であると教えている。

このたびの熊本大地震で被災し、各地の避難所などで生活している約10万人の被災者や、被災者の支援活動を行っている人々や、土砂に埋もれた人々を救出する作業を行っている様子がテレビに映し出されている。人々は困難に耐えながら助け合い、譲り合って頑張っている。そこには飢餓・悪疫・悪事・争い・不正はない。阿弥陀如来を信じる者から見れば、そこは正に「浄土」である。

 一方で、この大地震を一つの機会と捉え、原子力発電所の廃止を求めて盛んに運動を展開しているグループがいる。ある元教師は高校生たちのメールアドレスを入手して安全保障関連法案を「戦争法案」と呼び、これに反対するように呼び掛けるメールを送りつけて問題となった。あるテレビにレギュラー出演しているあるジャーナリストは、「政府を信用できない」と言った。

 日ごろ権力に強く反発している人たちは、将来、自分たちが権力者の側に立ったときは、最も権力的になる人たちであろう。何故なら、その人たちは現実を無視している理想主義者であるからである。もし仮に、権力側に立つことができた場合の彼らは、自分たちが理想とすることを実現する妨げになる者を徹底的に排除するため、血の暴力も辞さないだろう。

 「浄土」は、日ごろ「中庸」を大事に思い、柔和な心を持っている人だけが感じることができる所である。阿弥陀如来を心から信じ、悪事や争いをせず、正しいことをする人は現世も来世も浄土で暮らし、神通力を自覚することが出来るに違いない。ただし、それはその人だけにしか分らないことであろう。

 日本人は願い事の成就を神社で祈願し、結婚式をキリスト教会で行い、葬式を仏教で行い、お正月には神社や仏寺院に詣でる。仏事といい、神事といい、仏教と神道は日本人の日々の暮らしの中に深く根付いている。反権力者の多くも、多分同様であろう。

 しかし、科学的社会主義と言い、天皇も仏像も宗教も否定する独善的な思想家の集団は、既存の秩序をすべて破壊した上で自分たちが理想とする社会を建設したいと願望している。そのような思想の持主に扇動され、反基地・反原発運動などの反権力運動に与する人々は、自分たちが結局「五濁」「悪道」に満ちた社会に住むことになるかもしれないことを考えるべきである。


2016年4月18日月曜日

20160418「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(20)―― 原子力発電所反対運動に思う ――


 人は煩悩・無知のゆえに、権力に対して反発心を持つ。私もその例外ではない。ただ、私は、マスコミやいわゆる「有識者」を利用して、権力に対する反発心を隠しながら、表向きもっともな理由を挙げて、権力側が推進する事業に反対するような連中には与しない。

 熊本地方や別府地方で起きた大地震の原因が活断層のずれにあることを心配して、「媛県西宇和郡伊方町にある四国電力の原子力発電所は危険である」と主張する人たちがいる。

 私も日本の国土はその生い立ちから見ても活断層が国土のいたるところに存在しているので、日本は原子力発電所を持たない方が安心だとは思う。原子力発電所に反対する人々の殆どはそのような漠然とした不安感に駆り立てられて反対運動をしているのであろう。

 自由民主党は、将来原子力発電所を無くする方向で、再生可能エネルギーの開発と展開に力を入れる意向である。自由民主党は「自助」「公助」「共助」のそれぞれに最も適切なウエイトを置いて、最も現実的な選択により資源を配分しようと考えている。

 一方の野党は「公助」に最もウエイトをおいて、「弱者」に有利になるように資源配分をしようと考えている。「自助」「共助」は二の次である。共産党は彼らの理想の実現のためには、機会あれば暴力的な革命も辞さないことを視野に入れていると思われる。もし共産党が政権を取ったならば、自衛隊は共産党の理想を達成する目的のため改造されるだろう。更に「天皇は廃止」されるだろう。そこには「自助」も「公助」も「共助」もない。

 理想主義者は「現実」よりも「理想」に目を向ける。現実主義者は「理想」よりも「現実」に目を向ける。両方とも正しくない。最も正しいことは「中庸」にある。理想主義者も現実主義者も、それぞれ自分の欲求を満たすことにエネルギーを費やす。両者は「自己実現」のため自分のエネルギーを注ぐので快感があるのであろう。然り、「煩悩を満たすことは快感を伴う」ものである。

 反権力的に声高に「原子力発電所に反対」と叫ぶ前に、自分たちが「不便な暮らしをしても良いから電力の消費量を減らす」、と公に「宣言」し、「誓約」するならば、彼らの主張は理解されるであろう。「良いこと取り」をしながら反対を叫ぶのは間違っていないか?

 私も含め、皆、煩悩・無知の輩であるから、お互いそれぞれ「最も正しいこと」は理解できない。それが人間である。マスメディアは一方に偏した報道をするのではなく、両者が互いに理解し合えるような「議論の場」を提供することにエネルギーを注ぐべきである。



2016年4月17日日曜日

20160417「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(19)―― 活断層に沿った大地震の発生 ――


 太古の昔、巨大地震により生じた地底の活断層に沿って、このたび熊本の益城町と別府の由布にマグニチュード7を超える大地震が発生した。この活断層の下には南北方向に引っ張られる大地溝帯があるそうである。そこでは今後も大地震が続く可能性がある。

 九州は元々火山の島で、阿蘇盆地、日田盆地、玖珠盆地、由布盆地等は、太古の昔起きた大火山の爆発の後にできたカルデラ湖の跡である。カルデラ湖の淵が決壊し、湖水が下方に流れ出た後に川が流れている。阿蘇山や櫻島は現在も噴煙を上げているし、他に突然爆発して災害をもたらす活火山が沢山ある。それゆえ九州には風光明媚な景勝地が多い。

 普段何一つ不自由のない豊かな暮らしをしていても、今回のように活断層に沿った直下型大地震が起きると、突然不自由を強いられる。各自治体が発する避難勧告に沿って避難所に集まっても、炊き出しのおにぎりの配給を受けるため一時間以上も並んで待たなければならないような事態が起きる。

 全国の自衛隊・警察・消防・海上保安庁・日本赤十字社などの組織から緊急支援の部隊が直ちに現地に派遣され、活動が行われている。東京に近い宇都宮の陸上自衛隊の部隊からも災害派遣部隊が現地に向けて出発した。その部隊の車両のドライバーの中には女性隊員もいる。女性の隊員と言えば、輸送機のパイロットや護衛艦の艦長や海上保安庁の船長として活躍している人もいる。

 テレビを見ていると気象状況の説明を行っている人は、各家庭の災害対策や緊急避難のことについても、不特定多数の視聴者に向けて事細かく注意を促している。避難所で取材を受けた人々の顔を見ていると皆何処かに縄文人の特徴を現している。日本人は皆兄弟姉妹である。戦後日本人になった人たちも、数世紀もしないうちに皆混血・同化してしまう。

 ユーラシア大陸の何処かで、ヨーロッパ人・パプアニューギニア人の先祖と分れた人々、即ち縄文人がこの日本列島だけに住みついた。その後、縄文人はシナ(中国)大陸の呉・越地方に住んでいた人々と混血した。我々日本人はそういう種族である。日本人は天皇を宗家とする兄弟姉妹のような者であるから、大災害が起きたとき皆互いに譲り合い、助け合う。其処には1000年以上の歴史の中で培われた仏教の精神風土が見受けられる。

 官僚・自治体職員・自衛官・警察官・消防官・海上保安官・税関職員・政治家などは公に奉仕することが義務付けられているので、今様の‘武士’である。政治家で職務上公務員の立場にある人も今様の‘武士’である。医師・看護師・薬剤師・教師など公に奉仕する立場にある人々も‘武士身分’に相当する。地震・津波・土砂災害などが起きたとき、今様の‘武士’たちや‘武士身分’に相当する人たちは、人々の安心・安全を確保するため全力で奉仕する。かくして日本人はこの日本列島で、皆家族のようにして、繁栄を続けることができるのである。



2016年4月13日水曜日

20160413「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(18)―― 何故日本人は他の国の人たちと違っているのか? ――


 下の画像はNHKのEテレの番組『サイエンスZERO』の画面を撮ったものである。
 20万年前にアフリカで誕生し、アフリカから出て6万年前にユーラシア大陸に到達した人類の集団のうち、北に向かった人たちはヨーロッパ人の祖先になり、東に向かった人たちは縄文人の祖先になったのであろう。縄文人の祖先になった人々から、後に分かれた人々の一部は東アジア人や東南アジア人の祖先になったのであろう。(下図参照)

 縄文人はアフリカ人やヨーロッパ人と同じような身体的特徴をもっていた。それは、①縮れ髪、②湿った耳垢、③二重瞼、④彫りの深い顔かたち、⑤ウインクができること、⑥お酒を飲んでも顔が赤くならないこと、などである。

 縄文人は日本列島に辿りつき、其処で住みついた。核DNAから1万個の遺伝子を取り出し調べた結果では、日本人の遺伝子には縄文人の遺伝子が20%ほど含まれていることが分ったそうである。日本で何世代も続いてきた日本人の体の何処かに、縄文人の特徴となるものが20%必ず含まれているのである。1万個の遺伝子の比較では、日本人は東アジア人や東南アジア人とはかけ離れた特徴があることが分ったそうである。(下図参照)

 縄文人の遺伝子が20%しかないのは、縄文人の数が渡来系弥生人の数よりも少なかったためではなく、両者の食料源の差や生存率の差によるものであったと推測される。長江中流域からやってきた渡来系弥生人は稲作(ジャポニカ種)・漁労の技術をもっていた。彼らの男性たちは縄文人の女性たちを魅力的に感じた筈である。現在でも縄文系と思われる女性たちは美人である。逆に縄文人の男性は渡来系弥生人の女性に魅力を感じたかもしれない。

  長江中流域で黄河流域よりも1000年古い文明を持っていた稲作・漁労の民は、北方からやって来た畑作・狩猟の民に圧迫され、一部は雲南省に逃れ其処で滇王国を築き、一部は長江河口から海を渡り、山東半島から朝鮮半島南部を経て北九州に渡り、一部は直接、沖縄・九州南部に渡って来た。滇王国の遺跡からは日本の古代遺跡から発掘されたものと似たものが出土している(羽飾りを付けた人びとが乗ってオールを漕いでいる舟が描かれている)。

 仏教はインドで起こり、シナ(中国)に伝わり、朝鮮に伝わり、日本にも伝わった。しかし仏教はインド・シナ(中国)・朝鮮では圧迫を受けて廃れてしまったが、日本では興隆し、今日に至っている。何故だろうか?

 日本と東アジア諸国との関係は千年の昔から良好ではなく、現在でも緊張関係にあり、千年の後もその緊張関係は続くであろうと思われる。何故だろうか?

 その一方で、日本は欧米諸国と一時期戦争をしたが、その戦争をする前も戦争後も、欧米諸国とは価値観を共有することができている。日本人はヨーロッパ系の人びと・アフリカ系の人びと・東南アジア系の人びと・インド系の人びと等と気が合う。何故だろうか?


 そのことについてはいろいろな学説があるであろうが、私は根源的には遺伝子の特徴の差異があるためではないかと考える。日本人の遺伝子の80%は東アジア人の遺伝子と同じであり、日本人は混血雑種である。この混血の範囲は近年世界中に広まってきている。日本人は2000年以上も続いている男系皇統の天皇を戴いていて、同一の言語・文化を持つ単一民族である。日本人は「和」を大切にし、戦前の国際連盟の場で世界に先駆けて人種差別の撤廃を訴え、世界の国々と共存共栄に力を注いできている。戦前、日本はドイツと同盟関係にあったが、迫害を受けていたユダヤ人たちを救ったのも日本人であった。これらのことは日本人の遺伝子の多様性によるものではないだろうか?





 注:渡来系弥生人については、現在の中国のタイ族(雲南省)・ベトナムのキン族・中国の漢民族(南方)・中国の漢民族(北京)を、渡来系弥生人と同じ人種であると仮定している。



     


2016年4月12日火曜日

20160412「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(17)―― 沖縄の基地問題 


 先ず、副標題について「iRONNA」から“”で引用しつつコメントする。
 “翁長雄志沖縄県知事は、921日午後5時すぎ(日本時間922日午前0時すぎ)、ついにジュネーブで開催されている国連人権理事会において演説を行った。
翁長知事の主張を更に要約すると次の3点になる。
(1)沖縄県民は日米両政府から米軍基地を押し付けられて差別を受けている
(2)その差別は(日本の先住民族である)沖縄県民の自決権(自己決定権)を侵害している
(3)日本政府は沖縄に対しては民主主義も人権も平等も与えていない”

この要約のかっこ( )内の「日本の先住民族である」という言葉は、翁長知事国連人権理事会演の全文の中には、一言もない。これは、「iRONNA」筆者が下記のことを念頭に、強調したものであろう。

2008年時点には既に国連は沖縄県民を日本人ではなく日本の先住民だと認識し、日本政府に勧告を出していたということである。20081030日の自由権規約委員会 94回会期では、次のように日本政府に公式見解を提出した。
 32.委員会は、締約国が正式にアイヌの人々及び琉球・沖縄の人々を特別な権利と保護を付与される先住民族と公式に認めていないことに懸念を持って留意する。(27)

 国際社会においては、日本国内に「先住民族」問題があると認識されているようである。しかしこれは間違っている。日本には「先住民族」問題はない。南北アメリカ大陸の原住民は、その大陸に後から渡って来て彼らを武力で征服したヨーロッパ人とは明らかに違う人種である。それもアフリカから旅立った人類がヨーロッパ人よりも早い段階に分岐し、アメリカ大陸まで移動していった人々の子孫である。そこでは明らかに「先住民族」問題はある。「日本の先住民族」問題は、日本を貶めたい勢力の陰謀により惹起されていることである。

 アイヌの人々及び琉球・沖縄の人々の先祖は我々日本人に共通の縄文人である。縄文人は東アジア人よりも早い段階で、北アジアの何処かで分岐し、日本列島に渡って来た。彼らは日本列島だけにしか存在していない。福島県の三貫地貝塚で収集された、今から3000年前の縄文遺跡から採集された100体以上の縄文人の人骨の中で、核DNAを採集しやすいと見込まれた男女成人各一体の奥歯の歯根から核DNAの塩基配列が明らかにされた。その結果、日本人は東アジ人ア・東南アジ人とは全くかけ離れていることが明らかになった。

 ミトコンドリアDNAのハプログループで見るとアイヌの人々及び琉球・沖縄の人々の先祖は共通であることがわかっている。アメリカ大陸のインディアンやインディオと同じような感覚で、アイヌの人々及び琉球・沖縄の人々の先祖を「先住民」とするのは正しくない。

 問題は文化的なものである。九州以南の諸島には推古天皇のころから朝廷に服属するように働きかけがあり、天皇から位階が授けられている。元明天皇の御世、西暦715年の旧暦125日には、朝廷の役人(少初位下・太朝臣遠建治ら)が奄美・石垣・久米などの島民52人を率いて南島から帰っている。これらの史実は日本の歴史書『続日本紀』に書かれている。

沖縄の人々の先祖は薩摩藩による支配の下、琉球王国としてシナ(清王朝)に朝貢していた。これは徳川幕府により容認されているものであった。明治政府になって廃藩置県政策により琉球王国は琉球藩となり、沖縄県となった。

これらの事実から、沖縄の人々の先祖は「国連自由権規約人権委員会」が決めつけているような「先住民族」では絶対ない。この問題の根底には、沖縄の人々がアメリカ軍の基地問題について本土の人びと以上に過重な負担を一方的に強いられている、という不満があることにある。本土の人びとは、沖縄の人々の気持ちの10分の1も共有していないであろう。沖縄の人びとは、日本の安全と平和と繁栄のため、自分たちだけが過重な負担を強いられていると感じている。本土の人たちは沖縄の歴史をよく知らない。このような文化的な背景が沖縄の基地問題を複雑にしているのである。

日本の左翼の人びとは、このような考古学的・遺伝学的・歴史的真実に目を背け、自分たちの自己満足・利益だけのため日本の国益を損なう活動に情熱を燃やしている。日本の政府も、もっと積極的に国民への啓発活動を行うべきである。特に、本土に住む人々に、沖縄の人々の気持ちを確かに共有できるような啓発活動が必要である。本土の人びとが、「沖縄の基地負担の軽減のため、沖縄にはわれわれの血税から莫大な資金が投入されている。沖縄の人びとにはそれで我慢してもらいたい」というのでは、あまりにも身勝手すぎる。

日本政府は国連においてもさらに積極的に、「日本に先住民問題がある」という誤解を解くように努力すべきである。そのためには、政府内に特別な組織を立ち上げて、そのようなことを含む、日本に対する思想戦・宣伝戦に圧倒的に勝つようにすべきである。

仏教では「因縁」が説かれている。「因縁」の根底には無知から生じる「煩悩」がある。沖縄の人びとの煩悩を増幅しているのは本土の人びとの煩悩である。お互い仏教の「知恵」を出し合って、基地問題に関わる煩悩を無くすようにできないものだろうか?