2018年1月23日火曜日

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2018年1月19日金曜日

20180119相撲と相撲道(Sumo-Do)


相撲は武道である。それゆえ取り組みの相手を倒すため「かち上げ」・「張り手」などの技も使われる。

武術(bujutsu)は武道(budo)とは異なる。武術(bujutsu)は相手を殺傷する術である。しかし武道(budo)は相手を殺傷しない。そのためお互い防具を装着し、剣先が確実に相手を殺傷するほどの威力があったかどうかで勝負が判定される。

相撲も相手を殺傷するほどの技が用いられれば武道(Budo)ではなく武術(Bujutsu)となる。相撲は相手を殺傷しない範囲で技を用いることが許される。相撲道(Sumo-Do)とは相撲をとる人が力士(Rikishi)として「最高の善」を目指して精進する過程である。

横綱にまで昇進した力士が後輩の力士を素手で殴ることは相撲道(Sumo-Do)に反する。まして横綱が何か硬い物を用いて後輩の力士を殴ることは絶対に許されることではない。

貴乃花親方(Takanohana-Oyakata)は相撲界にけるそのような相撲道(Sumo-Do)に反することが許されるような風潮に警鐘を鳴らした。ところが相撲道(Sumo-Do)が何であるかを知らない人たちが貴乃花親方(Takanohana-Oyakata)を批判した。彼らは貴乃花親方(Takanohana-Oyakata)に理事を辞任させ、貴乃花親方(Takanohana-Oyakata)が次期理事選挙で当選しても貴乃花親方(Takanohana-Oyakata)を理事にすることを「素直には許さない」、という趣旨の発言をした。メディアはこの発言を批判しない。安倍総理の言動を批判しても。

相撲は日本古来の宗教である神道に基づく神事(Shinji)である。故に力士の髪の形は明治維新後も変わらず「ちょんまげ」の姿である。力士たちは街を歩くとき私服は禁じられ、江戸時代のままの着物・履物でなければならない。

華道(Kado)・茶道(Sado)・香道(Kodo)・書道(Shodo)・吟道(Gindo)も道(Do)がつく日本古来の精神文化である。これらの道(do)では芸能への精進を通じて礼節・知識・技を身につけ、仁愛・慈愛の精神を涵養し、心身共にその道の最高の善を追求しつつ人格を高めるよう修養する。剣道(Kendo)・柔道(Judo)・合気道(Aikido)・弓道(Kyudo)・空手道(Karatedo)等すべての武道も同様である。ラーメンを作る道においてもラーメン道(do)という道(do)の文化がある。

(do)の文化は世界に類例のない日本固有の文化である。このような文化は日本の近隣諸国には全くない。これが日本と近隣諸国との間で精神的摩擦を生んでいる。

武士道(Bushido)ではその究極において自己犠牲を厭わない。即ちその人は「最高の善」を目指す過程において自らの命を捨てることを厭わない。その人は自らの命を捨てた後の名誉を重んじる。その人を後世の人は永遠に尊敬する。その敬意はその人の子孫にまで及ぶ。

相撲道Sumodo)にはそのような武士道(Bushido)の側面もあるから、行司(Gyoji)は自らの命をかけて勝負の判定を行う。その意味で位の高い行司(Gyoji)は脇差を袴の帯に差している。それは行司(Gyoji)である自分が正しくない判定をしたときは自ら切腹する覚悟であることを示すためである。

グローバリズムの流れの中で相撲界には沢山の外国人力士たちが活躍している。外国人力士たちも普通の日本人以上に相撲の精神文化を会得(Etoku)し体得(Taitoku)している。

相撲の土俵の上に女性が上がることは絶対に許されない。似非グローバリズムに毒されていて発言力のある女性に「女性も土俵上に上がることが認められるべきである」と主張されても、それを絶対認めてはならない。


相撲はスポーツの側面があるが決してスポーツではない。この点が最も大事である。相撲は日本古代からの伝統的な精神文化の一つである。貴乃花親方(Takanohana-Oyakata)の理事解任は間違っている。相撲という精神文化の中には女性が絶対入り込んではいけない部分がある。しかしこれは女性を軽視していることではない。男は孤軍奮闘している貴乃花親方(Takanohana-Oyakata)が相撲界を本来あるべき姿に戻してくれることを望んでいる。