2016年5月26日木曜日

20160526「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(23)―― 幸せな道 ――


 いろいろあって憂鬱な日々を送っていたが大分気分が晴れた。そして今、50年数年前に初めて所帯を持った時のような気分になっていて、穏やかな日々を送っている。

 これまでの長い人生のなかでいろいろ紆余曲折があった。家内のことは完全に理解していたつもりであったが、あるきっかけで過去を顧みる文を何十ページにもわたり書き綴ってみたら、その理解は不十分であったことを初めて知った。

「あるきっかけ」は偶然のことであるが、観方を変えればそれは必然のことになる。それが必然であると認識すれば、自分は正に神通の中の天眼通・他心通の力を出したことになる。「これは決して偶然ではない。これは自分の身に起きるべくして起きた幸運である」と思えば、その幸運は神通力によって得られたものであることになる。

因みに「神通力」について、夢窓国師は武家政治家・足利直義との問答で「得法の人は必ず神通妙用を具足すべしや」の問に対して、「仏法を知らざる天魔外道も、神通をば施す。神通を具せる人なればとて、得法の人とは申すべからず。・・・」と答え、天魔外道の人は漏尽通ができずそれ以外の五通しかないと説いておられる。

 その神通力のうち六通は、天眼通(普通見えないものを見透すこと)、天耳通(普通聴き取ることができない物音を聞き取ること)、他心通(他人の心の中を見抜くこと)、宿妙通(前世のことを忘れないこと)、神境通(空を自在に飛びめぐること)、漏尽通(煩悩を断ち尽くすこと)の六つである。天魔外道の者は、神通のような施しを見せて人々を仲間にしようと誘うが、普遍的な真理の法を体得していず、煩悩を断つこともできない輩である。

 神通はそれを自ら実感するものにしか分らないものである。生まれ替わるとか、この世には居ない遠い過去の人と心を通わせるとかいうような、時間と空間を超えた意識の交流の観念は、その人にしか分らないものである。

 しかし、現実の世界では、その人が自覚していようといまいと、人は神社や仏閣や仏壇や神棚の前で、時間と空間を超えて意識の交流をしている。キリスト教やイスラム教の人でも十字を切ったり、神に礼拝したりして自分が意識する絶対的な‘存在’と意識の交流をしている。それはその人の自己満足の行為に過ぎない、或いは自らを慰める行為に過ぎない、と言ってしまえばそれまでである。

しかし、経験的に言うと、人は「お人好し」と思われるほど素直であった方が幸せであり、また、この世には居ない‘存在’と意識の交流ができていると思っている人は、なお幸せであると思う。

 その幸せは、核DNA遺伝とエピジェネティック遺伝により受け継がれた生来の性質と、生後の教育と、自己研鑽・修養と、見えざる‘お導き’により、もたらされるものである。

輪廻転生を説く仏教の「自力本願」と「他力本願」は、誰一人として同じではない人々を幸せに導く百人百様の方法論であって、どの宗派がベストというものではない。ただ、教育について言えば、まだ素直な子供時代に仏教に親しむように仕向ければ、その子は成長したときより幸せになれるに違いない。