2018年11月4日日曜日

20181105「往還回向由他力・不断煩悩得涅槃」




表題の二つの句は親鸞聖人が作られた七言絶句の詩『正信偈』の中にある。私は、この二つの句こそ、仏教の真髄であると思っている。

往還回向由他力(Ōgen Ēkō Yūtāriki )。この意味は;
「極楽浄土に生まれる原因も結果も、極楽浄土に往くことも其処から還ってくることも、全て阿弥陀如来のお力に由るものであるから、ただひたすらに阿弥陀如来への信心を勧めるものである。」(Both the cause and the result born in the paradise, as well as the return to the paradise and returning from the place are all due to Amitābha Buddha's power, so it is only to suggest faithfulness to the Amitābha Buddha.)

不断煩悩得涅槃(Fūdan Bonnō Toku Nēhan)。この意味は;
「阿弥陀如来への信心がひとたび起きれば、悩みを断たなくても涅槃を得て救われる。」(Once faith in Amitābha Buddha occurs, you can save nirvana and save you without having to stop worrying.)

『正信偈』には、次の句もある。私は「神通力」を実感することが度々ある。しかし、それは「これが神通力だ」と感じないかぎり、起きた現象はその人にとって何の意味もないものである。私は、宗教とはそのようなものであると思う。

「遊煩悩林現神通(Yū Bonnōrin Gen Jindū)。この意味は;
「生死の園に居ても神通力を現す。」(It is in the garden of life and death and reveals the tremendous power.)

 さて、私は20093月以来毎月投稿し、公開している詩吟の吟詠のブログに、福田蓼汀というお方の次の詩の吟詠を投稿した。作者福田蓼汀は明治38年(1905年)に生まれ昭和61年(1988年)に他界された山口県萩市出身の俳人で登山家である。この詩文中の「往還の去来」とは「往還回向由他力」の教えをそのまま表現されたものであろうと理解される。

『野の仏』福田蓼汀

追分や泉のほとりの一樹の下に
秋風を聴き時雨に濡れ雪に埋れて
春遠からじと合掌し落花を浴び
蝉しぐれを迎え傾くは傾くままに
欠けたるは欠けたるままの姿で
じっと静止している石の仏
年月も文字もなく風化するまま往還の去来
盛衰の人の世を見守っている
野の仏には虚飾なき人間の願望や
慈愛の情が込められている
社会の変転現象を越えた誠の象徴のように懐かしい


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