2019年2月4日月曜日

20190204晩年の記(その二)



 その「誰某」とは遠くない未来に他界する男の女房のことである。「誰某」はその男と結婚以来、その男との間で必ずしも平穏な状態だけでは無かったが、常に真心をもってその男に尽くし続けて来た。それはあたかも前世からそういう約束になっているかのようであった。その男は折に触れ「誰某」に「其方は、例えれば純白・無垢の和紙のようだ。私はその上に点々と薄墨を散らしたようなものだ」と語っている。

 その男の遠い先祖は奥州にあった藤原氏の荘園を管理する役目を与えられて奥州黒河に赴任した。その働きが良かったに違いなく、その息子は朝廷の実務官僚として出世し、民部大輔の位まで昇りつめ、その子孫も職名は代々変わっているがそれぞれ高位の実務官僚を務めていた。

 平安時代の末期、その男の先祖は何かの事情で九州に下向し、豊後高田庄に居住し、其処で病死した。その子供が「誰某」の先祖の地の葛木村某の家に世話になった。「葛木村」がキーワードである。

「誰某」は3歳のとき、大阪で父親と死別し、母親に連れられて実家である葛木村の某家に戻り、其処で父親の名字のまま、大家族であったその家の末娘のように可愛がられて幼児期・少女期を過ごした。その大家族の家は「葛木村」の神社の近くにある。「誰某」は子供の頃その神社で毎年夏行われる盆踊り大会のとき、踊りの列の中で大人に混じって踊っていた。当時子供であったその男は神社の境内で踊っている「誰某」を無意識に見初めていたのかもしれない。

 「誰某」が小学生のとき終戦直後のことで同級生たちの中には制服を持たない者が多かった。そのクラスメイトが写っている一枚の集合写真がある。「誰某」は制服を着て白いネクタイをし、同級生たちの最前列の中央で写真に写っている。その部分を切り抜いて拡大してみると、「誰某」はその時から既に、その男に生涯を捧げて尽くすことが決まっているかのような顔つきをしている。

 人生には人智を越えた不思議なことが起きる。それを「不思議」と単純に思うことも、「不思議ではない」と思うこともできる。その人の受け取り方次第である。歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ(Yuval Noah Harari)は「フィクション」だと言うが、仏教の教理を一概に「フィクション」だと決めつけられないところがある。仏教で説く「因縁」は真に不思議である。

 その男は「因縁」で病を得、「因縁」でその病を克服する機会を得ている。その男は「誰某」に約束した。「病気は必ず治る。これが平癒したら、私は其方のこれまでの私に対する献身に報いるため、200倍・300倍にしてお返しする」と。「誰某」もそのことを確信し、期待している。入院すれば「誰某」も暫く息抜きができるだろう。毎日のように遠くからその男の見舞いに訪れて来ても。
 

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