2018年3月21日水曜日

20180321自然葬


  
 自然葬に大変興味がある。親鸞聖人は九十才にて命終し、遺言で「某(それがし) 閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたうべし」と言われたそうである。ところが親鸞聖人のお弟子さんたちやご子息たちは当時の習わしに従い親鸞聖人のお墓を造った。お墓に関し真宗の教えの根本は自然葬である。

 そもそもお墓は先祖の祭祀を行う務めがある者にとって宗教的精神の拠り所である。仏壇も同様である。自宅に仏壇がない人は帰郷したとき墓参する。人々は仏壇やお墓や慰霊碑などの前で手を合わせ、この世をこの世を去った人の魂と交流する。

 親鸞聖人は自分がこの世を去ったら京都の鴨川に入れて自分の身体を魚に与えよ、と遺言された。その親鸞聖人の教えを伝える団体・真宗では、手を合わせる的の第一は「南無阿弥陀仏(Na Mu A Mi Da Butsu」の六文字が書かれている紙面であるという。その的の第二は阿弥陀如来が描かれている図の掛け軸であり、三番目は阿弥陀如来の彫像であるという。これらはキリスト教の礼拝のシンボルである十字架と同じようなものであろう。人々はこれらシンボルを通じて絶対的な存在と自分の心が繋がっていると信じるのである。

 我が家にも実家にあった仏壇の中から持ち帰った様々な仏具を収めた仏壇がある。その仏壇はガラス扉付きの書棚の一角を改造してその一角の内側全面に黄金色の紙を張り詰めたものである。燈明はロウソクの形をしたLEDで光るものである。阿弥陀如来の掛け軸は天井に取り付けたLEDの明かりで照らされるようにしている。香炉の香りは火をつけない線香の束で代用している。その仏壇の中には読経の時叩く鐘その他の仏具を収めてあり、側面に故父母の法名軸(Ho Myo Jiku)掛けてある。奥に「先祖の霊」と書かれた厨子もある。本願寺(Honganji Temple)の僧侶たちが唱える読経をBGMのように流しながら、これらの「的」に向かって合掌し、この世を去った肉親たちと魂の交流をする。

 親鸞聖人の遺言のように、自分がこの世を去った後火葬にされた遺灰は自然に還すことが理想的である。自然葬を行った場合、初七日とか四十九日とか一回忌・三回忌などの年忌は仏教の儀式と僧侶による仏教講話の両方の意味があるが、これらの行事を執り行うことについての考え方を変える必要が出て来る。

 自分がこの世を去る前に、これらのことについて考え方を整理し、遺言として残しておく必要がある。自分の家系について系図とその中に埋め込まれた写真とともにコンピュータ上に遺されれば、子孫は自分の心の拠り所をしっかり持つことが出来るに違いない。

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