2013年10月23日水曜日

「意識」と「仏教」(11)――「国家」としての修羅・地獄・極楽 ――

もし世の中に「善い人」たちばかりしか居なかったら、その「善い人」たちは目立たないだろう。世の中に「悪い人」たちも居るから世の中で「善い人」たちは「善い人」たちとして認められるのである。しかし「善い」と「悪い」の判断基準はそのように相対的な尺度で決まるものではない。

普遍宗教においては何が「善」であり、何が「悪」であるかを明確に示している。言うまでもなく「人を殺すこと」「他人の持ち物を盗むこと」「他人に暴力を加えること」「他人を騙してその財貨を奪うこと」などは「悪」である。キリスト教の聖書には「淫らな思いで女を見る者は誰でもすでに心の中でその女を犯している」と書かれていて、それは既に「罪」を犯したことになるとされている。この「罪」を犯さない男は少ないであろう。

一方、仏教においては正しい見解をもって貪欲(貪り)・瞋恚(怒り)・愚痴(愚かさ)などの煩悩・障碍から離れ、正しい思惟・意思をもって妄語(うそつき)・悪口(わるぐち)・両舌(中傷)・綺語(無益語)をせず、真実を語り、他人を正しく賞賛・評価し、慈愛の言葉を為して他人を協調・融和させ、有益な言葉のみを語り、殺生・盗み・不倫行為をせず、生き物を愛護し、困窮者に対しては施しをして与え、そして正しい性道徳をもって夫婦仲睦まじくして正しく暮らすようにと、仏教の経典には人としての生き方が説かれている。さらに仏教の修行にあたってはそのような生き方をしながら布施を行い、戒律を守り、恥や苦しみを耐え忍び、また他人に恨みの心を持たぬようにするようにと説かれている。

最近シナ(中国)では仏教や論語を復活させ、さらに官許のキリスト教布教を奨励している。非官許のキリスト教会の活動も共産党‘王朝’に反抗しない限りにおいて黙認している。しかし日本のように古来仏教が栄え、神道とともに日本固有の文化として広く一般大衆に根付いている状態と違って、シナ(中国)共産党‘王朝’を存続させる手段としてそれらを実行しているので、一朝一夕で国民性が改善されることは非常に困難であろう。

「修羅」とは争い・闘争の状態のことである。「修羅」がある状況では穏やかさがなく、喜怒哀楽が激しく、「悪」の状況が頻繁に生じる。其処には「善」が少なく「悪」が多い。人は自らの行いによって報いを受ける。「悪」を行えばその人は一生の間に「修羅」や「地獄」の状況の中に置かれる。しかし普遍宗教が教えるところに従い「善」を行えば「極楽」又は「天国」の状態に置かれる。正に地獄・極楽又は天国はこの世の中にあるのである。


これは国家についても言えることである。日本の周辺の国家群はどうであるのか?日本はどうあるべきなのか?若い人たちにはそこのところを良く考えて頂きたいものである。