2015年9月2日水曜日

20150901安全保障関連法案に対する反対者たち(2)


 東京オリンピックのエンブレムについて大問題となった。その背景にはアート製作過程における「無意識的な何か」が作用しているのではなかろうか?アートを作るとき芸術家は心の中に何かイメージを持っているだろう。そのイメージの元は自分がかつて何かを見て強い印象を受けていて、普段は表に現れないが自分の無意識の中にあるものとか、或は自分自身が全く意識していなくても、自分がこの世に生まれる前から定められているかのように自分の心の中に在るものであるとか、何か普通の人にはないようなものであろうと思う。

芸術家はそのイメージの元を自分の心の中で一つの形に作り上げ、何かを表現しようとするのだと思う。そしてそのように表現されて一つの形として表現されたものが、「盗作」「パクリ」とされてしまうことは起こり得るだろう。ただ、著作権が非常に尊重される社会、そしてインターネット上でその作品がその作家自身のオリジナルなものであるかどうかについて全世界的な点検が行われるようになっている現代では、自分が折角創作した作品がそのような「盗作」「パクリ」という汚名を受けないように細心の注意と点検が必要である。

 国立競技場と同様にエンブレムも作り直すことになった。問題が起きたときは先ず原点に立ち戻ることが重要である。そのときその問題にかかわった人を悪者に仕立て、その人を社会から抹殺するようなことをしてはならない。それは決して正しいことではない。物事を判断するときはそれを四方八方から眺めて判断するべきである。そういう意味で安全保障関連法案について思うことがある。
 
 安全保障関連法案を推進したいと考える側も、これに反対し法案の成立を阻止したいと考える側も、それぞれ自分の心の中にある「無意識的な何か」に動かされているに違いない。私は「国家は一つの生物種」であり、「生物は自己保存のため行動する」という考え方をし、東アジアの中で日本を含む諸国がそれぞれ自己保存のため行動している状況を自分なりに観察しているので、日本が生き残るためには安全保障関連法案の成立は是非必要であると思っている。

 産経ニュースに以下括弧(“”)で示す記事が出ている。安全保障関連法案の反対者たちもそれぞれ自分の心の中にある「無意識的な何か」に突き動かされて過激な言動をしていると思われる。ただ、石平氏が言っているように“言葉の暴力を容認するような「リベラル」はリベラリズムと言えるのか”という言葉には、大いに賛同するものである。

国会周辺で行われた安全保障法案反対集会に維新の党の党首は参加していなかったが、民主・共産・社民・生活の各党の党首が参加していた。各党首は石平氏の言葉をどのように受け止めているのだろうか?

 “東京・永田町の国会議事堂周辺などで行われた安全保障関連法案に反対する集会をめぐり、評論家の石平氏が「平和を語る資格」について産経新聞に寄稿した。石平氏は安倍晋三首相をののしる言葉の暴力に「日本のリベラルは死んだ」と嘆いた。寄稿の全文は次の通り。”

“8月30日、国会議事堂前での安保法案抗議集会で、山口二郎法政大教授は安倍晋三首相に対し「お前は人間じゃない」との暴言を吐いた。時代劇の決めぜりふからの借用らしいが、現代の人権感覚からすれば、それは明らかに、安倍晋三という一個人に対する言葉の暴力である。”

 “反安保法案運動が始まって以来、映画監督の宮崎駿氏は安倍首相のことを「愚劣」と罵倒し、日本学術会議前会長で専修大教授の広渡清吾氏は7月末に安倍首相のことについて「バカか嘘つきか」と二者択一の手法でののしった。そして学生団体「SEALDs(シールズ)」の中核メンバーの奥田愛基氏に至っては、8月の連合主催の国会前での安保集会で「バカか、お前は」と罵声を安倍首相に堂々と浴びせた。”

“こうした中で反安保法案運動はそのしかるべき趣旨から逸脱して理性と節度を失い、単なる安倍首相に対する「怨念の個人攻撃」へと変質した。このような「平和運動」はもはやその名に値しない。言葉の暴力を平気で振るうような人間たちに、「平和」を語る資格はどこにあるのか。”


 “さらに問題なのは、前述のような発言に対し、反安保法案運動の陣営から内部批判も自己反省もいっさい聞こえてこないことだ。日本の「保守」とは対極の「リベラル」を代表するような新聞などもそれをいっさい問題視していない。このような異様な事態はむしろ、日本のリベラル全体において基本的な人権感覚がまひしていることを示している。”