2015年9月11日金曜日

20150911集団的自衛権の行使について一言


 民主党を初め野党・一部の憲法学者らが集団的自衛権の行使について「たとえ限定的であっても憲法の範囲を超える」と主張している。共産党や社会民主党は安全保障関法案を「戦争法案」と呼んで国民の感情をその方向に引き付けようと躍起である。

 彼らがその法案に理解を示さない根本原因は何処にあるのだろうか?民主党の一部にはその法案の成立の必要性を理解している人たちもかなりいると思われる。しかし民主党は労働組合や日本教職員組合を出身母体にしている人たちが多い。党員たちの思想は国家のことよりも個々の国民のことに重きを置くという点では一致していているようであるが、国家のことについては一致点がないように見受けられる。

 国家のことについて「国家は一種の生物」であるという見方をしないと、左右の歩み寄りは出来ないだろう。ところが国家を「一種の生物」と見ることは、多くの日本国民にとってなかなか難しいことであるのかもしれない。なぜなら戦後の日本はアメリカの軍事力を頼みにして平和と繁栄を享受してきたからである。中国もロシアもアメリカの軍事力に敬意を示している。彼らはアメリカに刃を向けると手痛い傷を負うと思っている。戦後70年間平和と繁栄を享受してきた日本国民の中には、「性善説」に立って、日本が近隣諸国と懸命に善隣友好の外交に努めれば、日本は武力攻撃を受けるはずがないと信じ込んでいる人々が多いのかもしれない。

その人たちは「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(通称「日米安全保障条約」)によって、もし日本が某国から武力攻撃を受けたらアメリカは日本を守るためその強大な軍事力をもって反撃を加えることになっているのであるから、今更、憲法の解釈を変更してまでして「限定的な集団的自衛権の行使」に踏み切る必要はない、と思っているに違いない。しかしそれは幻想である。言うなれば、それは日本が「アメリカ旦那に囲われている妾・日本」のような、甘ったれた態度である。アメリカが「ライオン」であるならば日本は「虎」となって、お互いの利益を確保するため相助け合いながら、共通の「敵」に対抗しなければならないのが現実の世界の状況である。

 しかし、生物が自ら生き残るためそれぞれの種ごとに進化を遂げてきたように、「一種の生物」である国家もそれぞれ進化を続けている。しかも、それぞれの国家は「一種の生物」として環境の変化に適応しながら生き残るため、その保有している力(=軍事力・外交力)を高め、それを柔軟に使用できるように努力している。中国が「抗日戦勝利70周年記念」と称し、軍事パレードを行い、大陸間弾道弾・中距離弾道弾等のミサイルを誇示したのは、アフリカのサバンナで猛獣同士が自分の力を相手に見せつけようとする行動に似ている。

 「国家の自己保存」はいかなる国家にも備わっている固有の権利である。そのことは憲法にわざわざ書いていなくても元々国家が保有しているものである。その固有の権利を状況の変化に適応できるようにするため、最も効果的に、最も合理的に、最も経済的に行使することは政府の義務である。良識ある日本国民は、今の憲法の前文に書かれている「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われわれの安全と生存を保持しよう決意」するだけでは、日本の平和と繁栄が持続し得ない状況になってきていることを知っている。

 これを知らない、あるいは知ろうとしない政治家や学者は国家のことよりも自分の利益や自分が所属するグループの利益を優先しているか、元々、反権力・反国家の思想の持主であるか、あるいはただ情緒的に平和と繁栄を願望しているだけかのいずれかであろう。とは言え、この日本は言論の自由がある国家である。かつて、民主党政権のとき、人権保護法案という美名のもと、個人の言論を封じ込めようとする動きがあった。新聞社など報道機関の言論は認めるが個人の発言に対しては、外国人でもなれる人権保護員会の委員が目を光らせ、摘発することができるようになっていた。あのような悪法が自由民主党と公明党の政権復帰によって実現されなくなったのは、良識ある日本国民にとって幸せであった。

安全保障関連法案は国会において徹底的に議論されていて、その状況が国民に公開されている。言論が自由な幸せな国・日本の安全を隙間なく守るための安全保障関連法案が成立すれば、武力によって日本の固有の領土をかすめ取ろうと試みは挫折することだろう。国家は「一種の生物」である。生物は生き残るため、人間が言う「暴力」を振るう。そのような不法な力の行使ができないようにすることは、国民の幸せにつながることである。

3要件を満たすことを絶対条件とする、限定的な集団的自衛権の行使ができるようにすることは、今、日本をとりまく状況に適応して日本が「一種の生物種」として生き残り、進化するため絶対必要なことである。「一種の生物」である国家が生き残るということは、その「生物」の細胞のようである国民が平和に幸せに暮らすことができるということである。


言論は自由であるとは言え自分の主張を通すため集団を作って為す暴力的な言動を、野党とはいえ政党の党首が容認するようであってはならない。横浜で行われることになった安全保障関連法案に関する公聴会では、国会議事堂前で行われた同法案反対集会で見られたような「言葉の暴力」がないように願いたい。