2016年1月7日木曜日

20160107「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(6) ―― ギリシャの古代円形劇場で能を舞う/「修羅」を語り継ぐ ――


 ABSの番組を録画しておいた『世界遺産で神話を舞う』を再生して視聴した。アテネの南西約65㎞のところに今から約2400年前のエピダウロス遺跡というものがあり、そこで古代の円形劇場が発掘され往時の姿のまま保存されている。その円形劇場でギリシャ人演出家マルマリノスと人間国宝・能楽師梅若玄祥とのコラボレーションにより、ギリシャ最古の大英雄叙事詩『オデュセイアー』第11書「冥府行ネキア」を新作の能として演じるまでの経緯と、その劇場で行われた能の様子がその番組で紹介されていた。ネキアを題材とする能の脚本を書いたのは笹井賢一であり、舞台監督はギリシャ人ヴァ・マニダギである。プロデューサーは日本側が西尾知子、ギリシャ側がヨレブスであった。

ギリシャ神話の叙事詩が能で演じられたが、装束も所作も舞台も音響も全く古来の能と変わらない。上演は夜9時から行われたが、文化大臣も含め殆どアテネからやって来た1万人以上の、ほとんどがギリシャ人である観客のために、左右両側のギリシャ語による字幕が表示されている。能が始まるとそれまでざわついていた会場は静まり返り、観客は息を凝らして舞台に見入っていた。

口上は「オリンポスの神々よ 見そなわせ 我らは東の果て 日の出る国 日の本の能の一座」であった。能の終盤にオデュッセウスが冥界にいるアイアースに「アイアスよ 我に敗れたこと 未だ許さぬか アイアスよ (アイアスからは返事が無く亡霊をかき分け死者の国を去る) 鎮魂の芸能者 語り舞え 命たぎらす修羅の戦いを 敗れ去りし者の修羅を 勝ちし者の修羅の道 我らは鎮魂の芸能者によりて 永久(とわ)に語り継がれるであろう」と語る場面がある。能は舞なのであるが、演劇的な見せ場になっている。これは演出家マルマリノスが最もこだわった部分であった。

120分間の舞台が終わると観客は総立ちで大拍手を送り、拍手がなかなか鳴りやまなかった。主演者梅若は能面を外し、観客に応えた。観客の中には感激のあまり、「鳥肌が立った」と言った人も居た。これはギリシャ人の心の深奥に日本人と同じ八百万の神々への信仰心があるからであろう。演出家マルマリノスは「日本に来ると、まるで過去にここで暮らしていたような感覚になる」と言っていた。そのとおりであろう。今を生きる人の意識が、過去に生きた人の意識と共鳴・共振する。意識(無意識を含む)は、時空を超越し広大無得に融通無碍に、自由自在に延伸するものである。私は蔵書の『オデュッセイアー』(呉 茂一 訳)を読もうと思う。

多神教の国々は平和である。ギリシャは5世紀ごろキリスト教により多神教の偶像崇拝が禁じられた。修羅は一神教の国々の間や儒教の国々で起きている。あらゆる物に神を見、仏教行事を行い、キリスト教の風習も広がっている国、わがニッポンはなんいうと幸せな国であろうか!その中心に天皇様がいらっしゃる。日本人の意識(無意識を含む)は、天皇様に収斂して、縄文時代・弥生時代・古墳時代に生きた人々と交流する。『古事記』がそれを媒介する。有難いことである。共産党は批判するが、国会の開会式において天皇様の御座が高いところあってもいいではないか!


天皇はヨーロッパや中東や東アジアにおけるような支配者としての‘王’ではないのだ。皇太子が天皇になるとき「天下る」のであり、天皇が崩御されたときは「かむあがる」のである。科学的には霊界から「天下り」、霊界に「かむあがる」ものではないのだが、神話に先祖がいるのは天皇であるのだから、国会での議場という‘舞台’の開会式という‘儀式’においては、天皇が座す椅子は高いところにあってもいい。共産党がそれを目くじらを立てて批判するのは大人げないことである。