2016年1月5日火曜日

20160105「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(5) ―― 義理と人情、理想主義と合理主義、朱子学と陽明学、原理主義と実用主義 ――


 上記副題は、それぞれ一部重なる部分もあるが対立する概念である。いずれも一方がその正当性を強く主張すれば、他方はそれに対して反発する。仏教で説く天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの世界のうち、「修羅」の状況になる。「修羅」は争い・闘争の状態をいう。

 人は一切の我欲を無くすれば、「修羅」の状態で無くなるだろう。相対立する両者がそれぞれ我欲を全く無くした上で、お互いに中道・中庸を願うならば、争いは収まり、最終的に争いが無くなり、お互いに平安な状態になるだろう。一方に我欲がある場合、安易な妥協は後世に禍根を残す。これは真の中道・中庸ではない。

 ここにABが居てAは我欲がありBは我欲が無いとする。そのAが自覚できない、或いは自らは絶対知り得ない深層の心理(=無意識)にある我欲・怨念・妄信のためBを屈服させようとするならば、Bは自らの存続のためにAと戦わざるを得なくなるだろう。仏教が国民の間に根付いている国は一般的に平和な国である。これをBとする。「善」について独断的な観念をもっている国は一般的に国内的にも対外的にも「修羅」の状況にある国である。これをAとする。ABに対して心理戦・思想戦・サイバー戦・或いは武力挑発を仕掛けてきたときは、Bは自存・自衛のために武力を用いてAに対峙し、あらゆる手段を用いてAによる攻撃を防がなければならない。このとき仏教が国民の間に根付いている国であるBもやむを得ず「修羅」の状況に置かれる。

「煩悩」は人間のみならず人間の集団である国家にもある。これが平和を乱す原因である。平和を維持するために、仏教が国民の間に根付いている国Bは我欲・怨念・妄信の「修羅」の国Aに勝る強い力を保有していなければならない。安倍総理が掲げる「強い国・日本」を目指す諸政策の実行は、決して野党の政治家たちが非難している「暴走」ではない。安保関連法案は安倍総理が口酸っぱく何度も言っているように、日本国民を守るための法案である。

父が用明天皇の第二皇子であり、母が欽明天皇の皇女・穴穂部皇女である厩戸皇子(=聖徳太子)は仏教を厚く信仰し、日本国内に仏教を興隆させることに努めた。聖徳太子が推古天皇の御世に制定した『十七条憲法』は、日本の「和」の精神の真髄である。その後、聖武天皇の御世、日本では各地に国分寺・国分尼寺が置かれ、東大寺が建てられ、その東大寺には今でいう土木工学部も含めた総合大学とも言える教育機関が置かれて国中に仏教が広められ、人々の教育水準が高められた。

私は『十七条憲法』の中で特に、「一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ること無きを宗とせよ。(後略)」「十に曰く、忿(こころのいかり)を絶ちて、瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違うことを怒らざれ。人皆心あり。心おのおのの執れることあり。かれ是とすれば、われ非とす。われ是とすれば、かれ非とす。われ必ずしも聖にあらず。(後略)」などの条文が好きである。今から1410年ほど前に制定されたこのような憲法を持っている国は日本だけである。

日本を取り巻く東アジアの情勢は厳しいものがある。私は、日本は聖徳太子の時代・聖武天皇の時代に築かれた精神を大事にすることにより、東アジアの中で生き残ってゆくことができると確信している。日本は、自らは望まなくても、やむを得ず「修羅」の状況の中に置かれることもあり得るだろう。先の大戦で自らの命を投げ出して戦って死んで逝った先人たちの思いに、今を生きる日本人は意識を向ける必要がある。

『易経講座』(安岡正篤著、致知出版社)には次(“”で示す)のことが書かれている。この本には、物事を判断し実行に移す場合の知恵について書かれている。「無我無私」の重要性について説かれている。そして安易な妥協を戒めている。

 “(前略)・・単に歩み寄りなんていうものは居中であって折中ではない。易は中庸である。中庸は複雑な現実に処して勇敢に折中していくことである。・・(中略)・・安価な穏健中正等は一番くだらない誤魔化しである。・・(後略)”

 日本は安倍総理が掲げるように「積極的平和主義」を推し進めなければならない。日本は自らの領土・領海・領空・排他的水域を守り、平和と繁栄を維持するために必要な力を備え、これを常に高めてゆかなければならない。憲法前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」するだけでは、日本を守り抜くことは絶対出来ないのである。「平和!平和!」と叫ぶだけでは平和は保たれないのである。私は、一部の人々が安保関連法案を「戦争法案」と信じ込んでいるのは、人情・理想主義・朱子学・原理主義の表れとして理解できるが、日本を危うい状態に置きかねない心情であると思っている。