2016年3月19日土曜日

20160319「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(13)―― 「昨日の敵は今日の友」「今日の友は明日の敵」 ――


 今、NHKドラマ『真田丸』が好評を博しているようである。
 このドラマは日本の戦国時代の歴史に題材を求めて作成されたリアリスティックな演劇である。このドラマは時代考証もよく為されていて、観客をしてその当時の情景の中に引き込ませ、今を生きる者が当時の状況を目の当たりに見ているような気持にさせている。

 歴史ドラマは何でもそうであるが、劇作家の意図によって、断片的な史実を基にいろいろな肉付けが行われ、一言で表現するとすれば“「作られた歴史」の舞台を展開する”ものである。

 観客は、その舞台が「歴史的に真実の場面である」と錯覚する。国民を何とか惹きつけておきたい為政者と為政者に与する人々の集団は、意図的にそのような舞台を創り上げる。件のドラマの中で、共通の敵を欺くため、かつて離反した者同士が共通の敵に立ち向かうため大芝居を演じた。かつて離反した者同士は敵味方に分かれて戦闘の場面を作り、一方(A)が勝ち、一方(B)が負ける芝居を演じる。それを観たAとBの共通の敵(C)は、Aが自分たちに立ち向かって来ると思いこみ、Bを責めていた戦場から去る。これによってAも、「次は自分たちが攻め込まれるに違いない」という危機的状況から逃れることができた。

 真田丸が生きた時代にあった「昨日の敵は今日の友」「今日の友は明日の敵」という状況は、この日本の狭い国の中で行われていた。現代では日本を取り巻く地政学的環境の中で、それに似たような状況が起きている。かつては狭い国の中で、今は世界の中で、互いに‘自存・自衛’のため起きている。植物の世界では光合成が行われる環境をできるだけ多く獲得できた群集優勢種として生き残る。似たような状況は、世界の中で生き残って行くための資源を、できるだけ多く確保できる国・国家群優勢‘種’となる。

 日本国憲法前文に、「(前略)・・日本国民は・・(中略)・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。(後略)・・」とある。現代の世界の情勢では、そのような理想を掲げ、国家として崇高な理想と目的を達成することを誓っていても、決してそのようにはならないだろう。その理由は、人間は煩悩を断ち切って生きることは絶対できないし、人間の集合である国家も同様であるからである。この地球が地球外の生物などによって、人類が絶滅させられそうにならない限り、戦争は決して無くならないであろう。

 しかし、理性と武力の調和によって、「昨日の敵は今日の友」「今日の友は明日の敵」という状況の中で、ある国・国家群が優勢‘種’であり続けることができるに違いない。日本は国家の中心、それは2000年以上男系の皇統が続いてきた天皇を守り抜くことによって、国家として益々進化を続けることができ、過去・現在・未来に亘って、平和で安全であり続け、繁栄し続けることができるのである。私は、志ある政治家・官僚・学者・一般市井の人たちはこのことをしっかり自分の心の中心に置き、物事を進めて欲しい、と切に願っている

 仏教は、煩悩の中にある人々が、欲望を抑え、他者を殺さず、他者を傷つけず、騙さず、盗みをせず、阿弥陀仏の慈悲にすがり、心正しく生きるならば、「この世」において浄土に住むことができ、「あの世」においても浄土に住むことができ、必ず幸せになれると説いている。

しかし上述の志を達成する過程で、やむなく争い、敵となる国の人を殺し、傷つけることが起きる。志を達成するために殺されるということも起きる。兵士は国家という組織体の中の、ヒエラルキーの最下位・最少の単位、即ち細胞のような存在であるから、そういうことは避けられない。

 しかし、理性と武力の調和によって、そのような悲劇が起きることを最小限に抑えることができるであろう。「戦争反対!」「平和!平和!」と叫ぶが、武力を忌み嫌う人々は偽善者である。そのような人々は、結局自分たちの祖国を危機に陥れ、自分たち自身が不幸に陥るのである。人間でも国家でも‘自己(self)’を自覚できない場合は、はなはだ不安定である。‘自己(self)’は心に深層にあるのであって、積極的にその存在に気付こうとしない限り、自ら気付くことは絶対できないものである。まして、特定の思想的グループの中にいる者は、他人の話をよく聞こうとする耳を持っていない。

「耳を洗う」ことをしない限り、自分の心は開かれない。「欲無ければ一切足り、求むる有れば万事窮す」(良寛『意に可なり』)のとおり、欲のために万事窮する状況になっている人は世の中に多い。地獄極楽は現世にもあり、来世にもある。我欲を満たすためのみに行いを為す人たちの子孫は決して幸せになれないだろう。何故ならエピジェネティックな変異が世代を超えて伝わるからである。

国家も同様である。この日本国家に仏教を定着させる礎を築かれた聖徳太子と、現代の総合大学に匹敵するほどの教育機関でもあった東大寺と、各地にその地方の教育機関でもあった国分寺を建設された聖武天皇のご事績により、今日、日本国民はそのご恩をこうむっている。志ある政治家・官僚・学者・一般市井の人たちには日本の歴史を良く学び、このことをしっかり自覚して、未だその恩徳に気付いていない人たちを啓発してもらいたい、と一市井の老人は切に願っているのである。