2016年8月22日月曜日

20160822「志(こころざし)」を持つ「士(ひと)」


 昔、表題の「志士」は、天下国家の事について特定の思想をもっていて自分の命を懸けて行動する人のことである、と一般的に思われていたと思う。「士」について辞書を引くと、古訓では「ヲトコ・ヲノコ」などと出ており、名のりでは「ひと・まもる」などが出ている。現代的に考えれば、「志士」は正にある志を持って行動する人々のことであろう。

 従い「志士」のグループを色分けすれば、右派も左派も真正保守派も是々非々中道派も、また一匹オオカミ派も居ることになる。こういう色分けの中で自分自身はどうかというと、私は真正保守派ということになる。また、そうあるべく時々気に食わぬ記事が出ていたり、他の新聞が報道していることを敢えて報道しなかったりしている朝日新聞を今月から購読している一方で、インターネットを通じて産経新聞の記事を読んだり、右派と思われる執筆者の記事を読んだりしている。

 そういう中で「天皇制は嫌いだが天皇は好きである」という内容の記事に出会った。戦前兵隊の士気を高めるため「海行かば」のメロディーが流れていた。この歌詞は『古事記』に出ている内容とは全く違った意味で使われていた。それを推進した「意思の集まり」はその「天皇制」と言われる彼らの言う「制度」のもとに動いた、上述「志士」たちによるものであったであろう。「制度」は「組織の力」の「発揮」の根源であるから、その言葉を安易に用いてはならないのである。

 世の中を動かすのは「志士」たちである。しかしそれは最も正しい民主制度の中で普遍的に了解されるべきことである。その原則をしっかり踏まえた上で「志士」たちの行動が一般に受け容れられるのが正しい在り方である。その為には徹底した「自由と民主主義」思想のもとに、徹底した「情報の公開」が「当たり前」の文化が醸成されている必要がある。

 しかし、如何にそのような文化が熟した社会であっても、「志士」の言動に対しては必ず何処からか「反発」が出て来る。そのような「反発」が全く出ないような言動は全く無いに違いない。「志士」はそのような「反発」を恐れていては自分の「志」は達成されない。

その場合、「大義」は社会の中の大勢の意識的・無意識的な動向にある。そのような動向は常に移ろうものであるから、「気」を読むことにおいて頗る敏感であることが重要である。社会の中の大勢の意識的・無意識的な動向が我に利ある場合、「志士」はその「志」を社会に訴え、己の「志」の正しさを社会に認めて貰うようにあらゆる努力をしなければならない。

私は「日本会議」という組織のホームページを見ている。左派に属している人たちはこの「日本会議」という組織を警戒している。しかし私は「日本会議」のホームページに書かれている次のこと(以下“”で引用)は全く正しいと思っている。

“私達「日本会議」は、美しい日本を守り伝えるため、「誇りある国づくりを」を合言葉に、提言し行動します。”

“綱領
 一、我々は、悠久の歴史に育まれた伝統と文化を継承し、健全なる国民精神の興隆を期す。
 二、我々は、国の栄光と自主独立を保持し、国民各自がその所を得る豊かで秩序ある社会の建設をめざす。
 三、我々は、人と自然の調和をはかり、相互の文化を尊重する共生共栄の世界の実現に寄与する。”

 ペンの力で社会を変えようと考える「志士」たちも、自分自身の生活の糧を得るため敢えて大衆を扇動するような文言を書いている人が居るに違いない。我々はそういう人たちの「大きな声」に騙されてはならない。今後「日本会議」を潰そうとして、新聞・テレビなどメディアや著作や大学・高校等における左派の教師の活動を通じて、結果的に某国による反日本的思想戦の展開を援けるような動きが起きることがないかどうか、市民目線レベルでの警戒が必要である。

 一方で、あたかも「日本会議」派の者であるように振る舞いつつも私利私欲に走り、有力者顔をして自分に盾突く者を威嚇し、そのようなことができる手段を手に入れるためいろいろな尤もらしい理由をつけて情報公開を妨害するような人物が必ず存在する。そのような人物に対しても市民目線レベルでの警戒が必要である。

 心が正しい政治家は、社会の中の大勢の意識的・無意識的な動向にある「大義」を味方に、あらゆる情報手段を用いて私利私欲のため行動するような人物を排除するように行動するだろう。東京都知事に選ばれた小池百合子氏はそのように行動する政治家であるかどうか、日本中の非常に多くの人たちが注視しているに違いない。

 情報通信技術が高度に発達しつつある日本の社会では、政治は常に正しい方向に向かうと考えられる。マスメディアを使って如何に巧妙に自分への支持を広めようとしても、天皇を戴く日本の社会では「大義」に背く言動を行う「志士」は自然に淘汰される運命にある。「中庸」が一番である。安岡正篤『易学講座』(致知出版社)にはそのことが説かれている。