2017年2月2日木曜日

20170202『仏説阿弥陀経』について(9)


「五濁悪世」は『仏説阿弥陀経』に書かれている言葉である。「五濁悪世」は生物学上の生物である「ヒト」が必然的に作っている現象である。ところが善人面をして理想を追い求め、自分たちの知力・指導力で自分たちが理想とする社会の実現を目指すリベラリストたちも、「○○ファースト」と唱える政治家たちも、皆「五濁悪世」を作るのである。「五濁悪世」は人間社会の必然的現象である。

そういう中で現実を直視し、国民の最大多数の「安全・安心・繁栄」が実現されたかどうかは、歴史のみが審判する。現状を分析し、状況を的確に判断し、国民の最大多数の「安全・安心・繁栄」のため最善の方策を選択した国家のみ、未来における安堵が保障される。

「ヒト」以外の生物は「快・不快」の本能で行動する。彼等には「五濁悪世」は無い。「ヒト」以外の生物は生き残り、自分たちの種を残すことだけで行動する。ところが「ヒト」種生物の中でリベラリストたちが陥りやすいのは、自分が所属し、其処で恩恵と利益を得ている社会「最大多数」の人々の「最大幸福」である。彼らは善人面をした理想主義のゆえに、「少数」の人々の「最大幸福」のみに目を向けがちである。

リベラリストたちの発言はメディが喜んで取り上げる。一方で武力・経済力・宣伝力で国家の覇権を拡大しようとしている国々は、そういうメディアの動きを歓迎する。現に日本の国内・周辺でそういう現象が起きている。国民の「最大多数の最大幸福」の核心は、国家・国土・領土・領海・領空・排他的経緯水域・国民・社会の「安全と安心」であり、「繁栄」である。リベラリストたちはそういうことに十二分の注意を払おうとしない。

『仏説阿弥陀経』には「釈迦牟尼仏(shakamunibutsu)。能為甚難(nouijinnan)。稀有之事(keushiji)。能於娑婆国土(nouoshabakokudo)。五濁悪世(gojokuakuse)。劫濁見濁(koujoku-kenjoku)。煩悩濁(bonnoujoku)。衆生濁(shushoujoku)。命濁中(myoujoku-chu) 得阿耨多羅(tokuanokutara)。三藐三菩提(sanmyakusanbodai)。(釈迦牟尼仏は大変困難で稀有な仕事をやり遂げた。釈迦牟尼仏は五つの穢れに満ち溢れた人間世界で、最高に平等で正しい悟りの境地を得た。)」と書かれている。「釈迦牟尼仏」とは「仏(Buddha)になられた釈迦牟尼(Śākyamuni)シャーキャ族の聖者)」(=日本で言う「釈尊」)のことである。

「仏(Buddha)」とは「法(dharma)」を覚った人」の意味である。後世において「仏(Buddha)」は「如来(tathāgata)」と同じ意味になった。dharmaとはBuddhaによって説かれた教えである。それは人々をして現実の不安や苦悩から脱せしめ、苦しみの無い安穏な理想郷に向かわせる教えであり、社会全体を平和で幸福に導く教えである。(水野元博著『仏教要語の基礎知識』を参考として記述。)

『仏説阿弥陀経』には、“これより西の方の十万億のBuddhaの国を過ぎたところに「極楽」という国がある。その国に阿弥陀仏(Amitāyus buddha)という「量りしれない寿命を持つ者」がおられ、無量光(amitāba)(量り知れない光)を放っておられて、今現在も「法(dharma)」を説いておられる。その国には楽しみだけがあって一切の苦しみは無い。

そこではいろいろな美しい鳥たちが皆にBuddhaの教えの真実を知らせている。その鳥たちは罪の報いにより鳥の姿に変えさせられているのではなく、Amitāyus buddhaご自身がその鳥たちに変身している姿である。

その国の東方・西方・南方・北方・上方・下方にはそれぞれ数えきれないほど非常に多くのBuddhaや菩薩(Bodhi-sattvaの音写でBuddhaになるための修業者のこと)などが住んでいる国があって、それら数えきれないほど非常に多くのBuddhaたちがそれぞれの国にいて大いに弁舌を振るって真実の言葉を発している。(諸仏。於其国。出広長舌相。徧覆三千大千世界。説誠実言)という趣旨のことが書かれている。

「友は類を以て集まる」という諺のように、普段誠実で、謙虚で、他者を思いやる温かい心の持ち主の周囲・交友関係には同じような人がいる。そのような人たちはお互いの人柄の中に無意識にBuddhaを見ているのだろう。そのような人たちの間ではお互い無意識に「極楽」という国を見ているのだろう。

そのような人たちは五濁悪世の娑婆世界に生きていても、その人たちのところに自然に福徳が及んでいるのだろう。それは神通力が働いているようなものであろう。偶然の良い出来事は「起きるべくして起きた」必然の出来事なのだろう。

そういうことは国際社会では到底有り得ない。国家は「一つの生物種」と見なすべきものである。国家と国家の間では「Give and take」の関係のみで福徳があるかどうか定まる。これは言うなれば生物と生物の間の共生関係のようなものである。勿論、国家は一時的には人道主義と友愛精神に基づく「善」なる行動をとる場合もあるだろう。しかし国家としてのそのような行動が、その国民の「最大多数の最大幸福」を阻害するものになるならば、それを継続することは難しくなる。所詮国家は利己的な存在である。

 「国家」と一口に言っても、一人または一党独裁の国家もある。史実を捻じ曲げ偽りの歴史を国民に堂々と教えている国家もある。日本の周辺にある国々はそういう国家である。