2017年2月7日火曜日

20170207『仏説阿弥陀経』について(10)


放送大学の講座に『博物館学』というものがある。この講座の講義内容はテレビ受信装置のハードディスクに収められているのでいつでも見ることができる。その講義の中で北海道の白老町にあるアイヌ民族博物館のことが紹介されていた。

アイヌの人々は独特の言語・文化を持っていたが明治政府による同化政策により日本人としての名字・名前を名乗り、和人(昔、大和民族の人々が自分たちとアイヌの人々を区別するため付けた自称)との混血が進み、現在ではアイヌ語を母語のように話すことが出来る人は全く居なくなってしまっているのではないかと思われる。しかしアイヌ語由来の地名は北海道・東北地方などに多い。

日本人は元々北の北海道から南の沖縄までの日本列島だけに暮らしていた縄文人という人種と、4200年ほど前以降長江中流域から徐々に、東シナ海を直接横断するルート、及び山東半島から朝鮮半島南部に渡り、其処からさらに北九州に渡るルートで、それぞれ日本に渡って来た渡来系弥生人が混血して生まれた人種である。縄文人たちと渡来系弥生人たちとは争うことなく混血して日本の古墳時代人になった。その中から後に大和民族を束ねる天皇(神武天皇)が現れ、今年皇紀2677年になるまで男系の皇統が続いて来ている。

白老町にあるアイヌ民族博物館の学芸員の方々の容貌はアイヌの血を引いているようで彫りが深い。その人たちと一部の沖縄の人たちの容貌は似たところがある。縄文人のDNAとアイヌの人々のDNAには同じ部分が多いことが分っている。一方アイヌの人たちと沖縄の人たちのDNAにも同じ部分が多いことも分っている。これは大和朝廷があった近畿地方から離れた地域では混血の度合いが少なかったということを示すものである。

2012年の秋私が妻と二人で北海道に旅行したとき、阿寒湖ある店で『アイヌ語を覚えちゃおう!』と題するリーフレットと『マンガ版アイヌ語辞典』を貰った。その店で私は豊岡キイチ著『邪馬台国を見る』と言う本を買った。豊岡キイチ著『邪馬台国を見る』には日本各地の地名の中にアイヌ語との関係が深いと考えられるものが沢山あることが紹介されている。

『マンガ版アイヌ語辞典』には、昔アイヌの人々が和人と戦ったことや、江戸時代に松前藩による支配を受けて絶対的な服従を強いられていたことなどが描かれている。アイヌの人々も「和人」もルーツが同じ縄文人であるのに、これは悲しい史実である。「和人」たちはアイヌの人々をひどく差別していたのだ。

アメリカインディアンやオーストラリアのアボリジニなどはそれらの国々ではヨーロッパ人に武力で征服され支配された少数民族と言うことができるが、アイヌの人たちや沖縄の人たちにはそういうことは無かった。アイヌの人たちも沖縄の人たちも天皇の下、皆同胞である。同胞とは同じ母から生まれた血縁という意味である。そのことを知らないか、そのことを無視している人たちが「琉球独立」を掲げて運動している。

国連の人種差別撤廃委員会などは200810月以降、日本政府に沖縄の人々を先住民族と認めるよう複数回にわたって勧告しているが、これは沖縄を日本から分断しようとしている某国による陰謀である。日本列島には先住民族など全く居ない。

釈尊は私たちが生きている娑婆世界を五濁悪世であると仰っている。五濁とは劫濁(こうじょく)・見濁(けんじょく)・煩悩濁(ぼんのうじょく)・衆生濁(しゅじょうじょく)・命濁(みょうじょく)の五つのことである。劫濁は「時代の穢れ」、見濁は「邪悪で汚れた考え方や思想が常識となってはびこる状態」、煩悩濁は「欲望や憎しみなど煩悩によって起こされる悪徳が横行する状態」、衆生濁は「心身ともに人びとの資質が衰えた状態」、命濁は「自他の生命が軽んじられる状態」である。(真宗大谷派東本願寺ホームページより引用)

アイヌの人々に対する固定観念や先入観を取り払い、アイヌの人々に寄り添った先住民政策を再構築するための全国組織を持つことは上述五濁から離れるために大変結構なことである。しかし沖縄の人々を先住民族をとするように国連に働きかける日本人は逆に五濁をつくる悪人たちである。

沖縄の人々を先住民族をとするように国連に働きかけることに理解を示す日本人や日本のメディアは、どう見ても奄美群島・沖縄諸島・宮古列島・八重山列島・大東諸島、八重山列島・尖閣諸島を自国の領土にしたいと思っている某国の野望に応えているとしか思えない。彼らは自らがこの日本国で恩恵と利益を得ている存在であるにもかかわらず、日本国の安全と繁栄・日本国民の安心と幸福を脅かそうとする悪い奴ら・非国民である。

しかしこのように彼らを「非国民」と呼んで蔑みたい気持ちも、私自身が娑婆世界に住んでいる以上絶対断ち切ることができない穢れである。私は和讃にある「法身の光輪・智慧の光明・解脱の光輪・光雲・清浄光明・仏光照曜最第一」と表現される阿弥陀如来の絵図に向かって「南無阿弥陀仏」と幾ら唱えても、その煩悩を断ち切ることはできない。私は娑婆世界に生きている以上、正義感に基づく怒りの気持も、本能的欲望とともに断ち切ることは絶対出来ない。それでも私は親鸞聖人に導かれたお蔭で、今生において既に阿弥陀如来に救われており、私の命終後も阿弥陀如来に救われる身である。