2013年9月1日日曜日

「意識」と「仏教」(7)――『歎異抄』を読んで思いついた小説の草稿――

 防災の日、いつになく暑い。俺も妻も防災訓練に参加して古くなった消火器を取り換えて貰おうようと思ったが、こう暑くては出かけるのが億劫である。妻が言う「お父さん、日本人男性の平均寿命のことを知っている?」と。私は答えた「78歳だろう?」と。「そう男は78歳で女は86歳なんだそうよ。そして健康な年齢は72歳までだって」と妻は言う。「そうだろうな。俺たちはその平均よりずっと健康だと思うが、ま、せいぜいあと5年だろう。俺も最近自分の身体の衰えを自覚しているよ」と言いながら、「あと数年の命だ。やるべきことは大分片付いたが、死支度を急がねば」と俺は思った。

 この『「意識」と「仏教」』のシリーズは二人の息子たち・嫁たち、孫たちへの遺言のようなものである。人は老いると霊的になると言われるが、俺もその類である。俺は若い人たちに対してお仕着せがましいようなところがあると思う。妻は女性の特性だろうがこのような心境を理解できないだろう。そもそも人の「意識」というものは他人にはその中身がどのようなものか想像できても、決して理解できるものではないのである。

 『歎異抄』を読んで、ある小説の草稿の一部が思い浮かんだ。
「思えばつい最近までのことであったが、信夫はたまに癇癪玉を破裂させて妻の美千代に怒声を浴びせていた。その都度反省し「ごめんね」と謝っていた。美千代は生来きわめておおらかな性格であるが、そのときは信夫に彼の古傷を疼かせるようなことを言い、時には本当に悲しくなって涙を流しながら信夫の非を指摘していた。

信夫が変わったのは彼が自分の身体に宿る先祖の誰かの霊魂を意識し始めた時からであった。信夫の身体には幾世代も幾十世代も前の先祖、千年以上さかのぼれば藤原の鎌足や地方の豪族や古代の天皇家や新羅の王家にも至る諸先祖の御霊の一部が時空を超え時差・場所に無関係に複数・幾条にも信夫に関わっている。信夫がそれらの御霊を意識するときそれらの御霊と信夫の意識とが互いに共鳴し響き合う。そのことを自覚したとき信夫は自分が‘生きている’のではなく‘生かされている’ことを知った。

同様に時空を超越し広大無辺・融通無碍の先祖、それも遠くさかのぼれば信夫と共通の先祖の御霊が宿っている美代子が真に信夫のことを思い、真心を尽くしてくれていることを信夫は深く感謝するのである。


かくして日々是好日。共に老い先短い信夫と美代子は互いに慈しみ合い、お茶の時間・お昼の時間・買い物の時間・ウオーキングの時間等を共有しながら本当に幸せに日々を送っている。何れ訪れるそれぞれの最期の到来に備えてお互いに支度をしながら・・・。」