2013年8月30日金曜日

「意識」と「仏教」(6)――『歎異抄』に書かれている輪廻転生――

人の「意識」は言語や知識や性格や記憶などに関わる遺伝子と、脳のさまざまな領域の活動をもたらす神経細胞の働きと、脳の構造としては人にしか存在していないという「縁上回(えんじょうかい)」「角回(かくかい)」などの脳の部位の働きが関わっていると考えられる。

人にしか存在していない「意識」の完全な解明は後100年たっても実現していないかもしれないと言われている。インド人で神経科学と脳神経科学がご専門であるラマチャンドラン博士は“「意識が脳からどう生まれるのか」という問題に、科学的な解があるかどうかはわかりません。この問題は、時間と空間の問題と似ているのかもしれません。「時間と空間が実は同じものの一部である」と考えたアインシュタインのように、意識を理解するためには、いずれかの時点で世界観を完全に転換する必要があります。それができれば意識や心(mind)を科学的な手法で明確に理解することも可能になるでしょう”と言っている。(Newton別冊「知能と心の科学」より)

『修證義』(大本山永平寺)に「生(しょう)を明(あきら)め死を明らむるは佛家(ぶっけ)一大事の因縁なり、生死(しょうじ)の中に佛(ほとけ)あれば生死なし」とある。『歎異抄』にも同様のことが書かれている。親鸞は他力本願で一心不乱に‘ナムアミダブツ’と‘念仏’を唱えることができるようになればこの「生死」なしの境地になれると説いている。これは仏教の経典や注釈書の筋道さえも知らない愚かな人々が唱えやすいようにしているものであり‘易行’という。

一方学問のある人たちが自力で悟りをひらこうとする行為を‘難行’という。しかし‘難行’して道を誤り名誉や財物に心を奪われる人たちが多い。そういう人たちはその行いの程度に応じて次の世において再び‘人間界’に生まれればよいが、‘修羅界’以下の修羅・地獄・餓鬼・畜生の何れかの世界に生まれることもあるであろう。


『歎異抄』には「すべての生あるものは、みなともに、長き世をかけて生まれかわる間に、父母ともなり兄弟ともなってきたのである。だから、だれをもかれをも、念仏する人は、この次の生(しょう)にブッダとなって助けるはずである。・・(中略)・・われわれにとって大切なことは、自力にとらわれた心をすてて、念仏して、いそぎアミダの浄土に生まれるものとなることである。浄土のさとりをひらくならば、たとい地獄でも、餓鬼でも、畜生でも、どんな世界で、どんな苦しみに沈んでいても、ブッダの自由自在なはたらきで、まず身近なものから助けていくことができるのである。―――と、このように親鸞聖人はおっしゃった」と書かれている。仏教では霊魂は輪廻転生しながら永遠に存在し続けると説いている。‘霊魂’を‘意識’とすれば意識は六道を永遠に輪廻転生しているのである。