2014年8月6日水曜日

20140806Nさんの初盆


昨年11月初頭の朝、男が親しく付き合っていたNさんの奥様から訃報があった。Nさんは男より3歳年長のお方である。彼は「もし自分が満洲引揚者でなかったら防大1期受験予定であった」と言っていた。

彼は男の竹馬の友Sの親友であった。竹馬の友が青雲の志をもってW大学に入学し清貧の暮らしをしていたとき、たまたま知り合ったN大学法学部の学生であったNさんの下宿に転がり込み1年間ほどNさんと共同生活していたという。

男はNさんと一週間前、保土ヶ谷の下町の蕎麦屋で蕎麦を食べながら歓談したばかりであった。Nさんの死因は脳内出血。Nさんは2日前の午後3時ごろいつものように自宅でお茶を飲み菓子を食べて横になって、いつもとかわらぬ表情で休んでいたという。奥さんもNさんの病変には全く気付かなかったという。ところが夕方になってもNさんは目を覚まさない。Nさんは昏睡状態のまま救急車で病院に運ばれた治療が施されたが回復することなく病院のベッドの上で静かに息を引き取った。

一週間前蕎麦屋で男と語り合っていたとき、Nさんは自分は前世はモンゴルの平原に住んでいたと思うと話していた。それは彼が仕事でエジプトに旅した時の体験に基づくものであった。終戦時Nさんの父親は民間人であったが軍人の人数に加えられ、解放された囚人たちとともにウランバートルに連れて行かれ、其処で過酷な状況下死んだという。囚人たちはそれぞれ勝手に軍歴を語り、ソ連軍とうまくやって他の抑留者たちをいじめていたという。

終戦時12歳であったNさんは日々の糧を得るため奉天の街角で宝石を売っていたそうである。その宝石というのはNさんのお母様が持っていたものである。男の母親も宝石なども入れてあった行李を持って日本に引き揚げた。ところがその行李はある駅のホームで「運んであげよう」と声をかけてきた一人の男性に持ち逃げされてしまった。背中に乳呑み児を負い、9歳と7歳の男の子を連れて引き揚げてきた32歳の母親は、呆気にとられ為す術もなかった。

NさんとNさんの奥様とは結婚後判ったことであったが、「通化事件」という事件が起きたその通化でNさんも奥様も暮らしていたことがあったという。Nさんも奥様も共に残留孤児になる可能性があった。Nさんが防大を受験しなかったのは終戦時の関東軍の行動に疑念があったからであった。終戦直後の満洲で何が起きたのか、男も含めて何も知らないし、知ろうともしていない。

男も朝鮮南部からの引揚者であるがNさんやNさんの奥様のような過酷な体験はしていない。しかし朝鮮北部からの引揚者の中には過酷な体験をした人たちがいる。男の同級生K子もその一人であった。彼女は子供ながら男の子のような恰好をして命からがら引き揚げている。男の叔母は京城(今のソウル)女子師範学校の同級生が引揚時強姦され、彼女(同級生)が日本に引き揚げて帰ったとき港で待ち受けていた恩師がその人をすぐ病院に連れて行って堕胎処置を受けさせたという。『日本人少女ヨーコの戦争体験記 竹林はるか遠く』という本に書かれていることは実際に起きたことである。

今日は広島平和記念式典が例年どおり行われた。他国の領土を手に入れようとし、他国の領土を不法に占拠しているような国々に対しては、日本は心から平和の持続を願望しつつも毅然とした態度を示すことができるように強い体制を構築しておく必要がある。世界には「野獣」のような面を見せる「国家」もいる。

もうすぐNさんの初盆である。男はNさんの奥様に電話を入れてあげようと思う。