2014年12月26日金曜日

20141226「あの世」は「この世」の続きである


 テレビのスイッチを入れたら「ゴンチチ(GonTITI)」のトークショーが放映されていた。このギターバンドの二人の出会いは全く偶然のことであった。しかしそれは決して偶然の出会いではない。「この世」に生きている立場で観るからそれは偶然のように見えるが、意識を遠い過去から遠い未来まで拡げて考えるとその二人は「この世」で出会うべくして出会ったのである。つまりこの出会いは決して偶然ではなく必然であったのである。

 通りを行き交う人々は皆遠い過去から連綿として続いている中のある人生を「この世」で生きているのである。人々は「この世」に生まれ、成長し、子孫を残し、老い、やがて死ぬ。その一生の間、ある人々の意識は良い方向に高まってゆき、ある人々の意識は悪い方向に向かってゆく。そしてそれぞれ一生を終えた後それぞれの意識はまた別の新たな生命に宿る。そのとき意識はそれにふさわしい生命に宿る。良い意識は良い生命に宿り、悪い意識は悪い生命に宿る。

 たとえある良い意識が「この世」で良い生命に宿ったとしても、その人がそのことを自覚せず悪い方向に活動すれば良い結果を得ることはできない。一方悪い意識が宿った生命であってもその人の努力次第でその意識は良い方向に高められる。人々は「この世」で煩悩に振り舞わされながらも皆一生懸命生きているのである。

 人々にそのような意識を持たせるある永遠の存在がある。キリスト教やイスラム教などではそれを神といい、仏教ではそれをブッダという。神とブッダの違いは何か?神は生命の創造主であると観る永遠の存在であり、ブッダは生命と共にあると観る永遠の存在である。何れにせよ人々は神またはブッダに生かされている。人々は煩悩の身で生きており、一方である永遠の存在によって生かされている。


 人は自分の意識でこの永遠の存在を捉えることができる。しかしその捉えたものを他人に分かってもらうように説明することは非常に難しい。それはほとんど不可能である。「この世」で煩悩に振り回されながらも自分の意識を少しでも良い方向に高めるように努力しつつ、自分がある永遠の存在に生かされていることを自覚して「この世」でその永遠の存在に期待されていると考えていることを実行する人は、「あの世」できっと良い生命に宿って「この世」にいるよりは幸せな一生を送ることだろう。