2015年5月6日水曜日

農耕集団の子孫と二丁拳銃のカウボーイの子孫の握手


 司馬遼太郎の『街道をゆく3 陸奥のみち 肥薩の道』を読んで感じたことがある。我々日本人は彼が言うように弥生式農耕を身につけた農耕集団の子孫である。農耕集団の子孫である日本人は昔から環境に対する適応性に非常に富んでいた。その適応性は人間関係においても国際関係においても発揮されている。

 放送大学で『植物の科学』という科目を学んでいる。そこで知ったことは、「植物は簡単な化合物から複雑な化合物を合成することができるが、ヒト(人間)を含むすべての動物は、植物が行っているそのようなことはできない。従って動物は植物を食べることによって、或は他の動物を食べることによって必要な化合物を得て生きて行くことができる。

 植物は炭素・水素・酸素・窒素など16種類の必須の元素がないと生きて行けない。それらの元素のうち植物が沢山必要とするが土壌の中では不足しやすいものが窒素・リン・カリウムの三つの元素である。リンはリン鉱石から作られるが、経済的に採掘可能なリン鉱石は遠くない将来この地球上では枯渇するであろうと予測されている」ということである。

 植物内に寄生する微生物を利用して植物の生育に必要な窒素肥料やリン肥料の使用量を減らす技術、同様に植物内に寄生する微生物を利用して、害虫にとっては毒素となるものを作らせて農薬の使用量を減らす技術、遺伝子技術を用いて乾燥に強い作物を作る技術など、農業に関する技術の研究開発が活発に行われている。そのような研究開発は自国のみならず後進国の発展のためも役立っている。

 先進国ではそのような技術の研究開発に関する情報ネットワークが発達し、なおもそのネットワークの進化が進んでいる。それは脳の神経回路が発達を続けているような状況に似ている。ある環境の状況に適応するため情報ネットワークが発達する。脳の神経回路も環境に適応するため発達する。環境への適応は日本人・日本国が最も得意としていることである。

 他人の言動に一喜一憂し、感情的になって他人を非難し他人を見下げることを言ったり行ったりして溜飲を下げ、自己満足することに自分のエネルギーを費やす人がいる。しかし理性的になって物事の真実を知る努力、生きるために必要な能力を高める努力をして世の中のためになる物を新たに創り出すことにエネルギーを費やすことのほうが、その人を幸せにする。そのような人は尊敬される。他人のことが気になって仕様がない人は自己満足を得るため多くのエネルギーを消費している。そのような人は尊敬されない。

 国家も同じである。日本は他国の言動に振り回されてはならない。ただし日本は理性的に、論理的に、静かに、穏やかに、あらゆる機会を通じ、あらゆる方法を用いて日本の正しさを示し続ける必要がある。方法の一つに「武士が腰に差している日本刀」がある。それは滅多に抜くことはないが、抜けば相手を切り倒すことができる武力のことである。従来、日本人には謙譲の美徳があり、相手は自分のことを分かってくれていると思いがちである。しかし現代の社会ではそのような美徳は通用しない。国際社会でも同様である。

 日本国憲法の前文に「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われわれの安全と生存を保持しようと決意した」とある。しかし、日本をとりまく環境に「諸国民の公正と信義に信頼」することができない国々が存在していることは事実である。この前文は理念として残されてもよいが、憲法改正の際には日本が存続してゆくための理念となるような文言が憲法前文に書き加えられるべきである。


 日本は血みどろな戦いをした相手であるアメリカと和解し、日本とアメリカはお互い最も信頼し合える関係となった。これも国のため死んだ吉田松陰が生きていた江戸幕府末期のころからの日本とアメリカの関係があったことが非常に大きく影響している。『武士道 Bushido—Soul of Japan』を著した新渡戸稲造、同志社英学校(現在の同志社大学)を創設した新島襄、女性の教育のため女子英学校(現在の津田塾大学)を創設した津田梅子らは、幕末から明治の初期にかけてアメリカで学んでいる。農耕民族の子孫は2丁拳銃のカウボーイの子孫としっかりと手を組んだのである。映画『THE  LAST  SAMURAI の最後のシーンのように・・。