2015年5月1日金曜日

20150501日本人の「道(どう)」の精神


 日本には武士道がある。日本には剣道・柔道・空手道・合気道・居合道・薙刀道・弓道・相撲道など日本発祥で、かつ日本古来の伝統武道がある。日本には華道・茶道・香道などの日本発祥・古来の「道(どう)」文化がある。日本には琴・尺八・歌舞伎・能楽・狂言・人形浄瑠璃・神楽・舞踊・盆踊り・小唄・都々逸・講談・落語・浪花節・漫才・吟剣詩舞・詩吟など日本発祥・古来の伝統芸能がある。これもそれぞれの芸能「道(どう)」の文化である。

 「○○道(どう)」と呼ばれるいろいろな修業・鍛錬の道は古来日本人が名付けたものである。「道(どう)」とは、上述のようなそれぞれの道(みち)を通じて、その道(みち)において「自分自身の技術・能力・知識・人格・品格などを高め、自分に関わる他者との間で、「形が有る状態」或は「形が無い状態」で「共に生きる」道である。たとえ修業・鍛錬の道(みち)において自分に関わっていた他者が居なくなっても、自分はその居なくなった他者とともに依然として生きている道(みち)、それが「道(どう)」である。道(みち)を「道(どう)」と呼ぶとき、それは非常に高い精神性を帯びる。

 ちなみに韓国の国技であるテコンドーまたは跆拳道(たいけんどう)は空手に起源がある。その空手はもともと明治初頭の頃の沖縄で、手(て、琉球方言でティー)もしくは唐手(とうで、琉球語でトゥーディー、トーディー)と呼ばれていたものである。唐手とは中国から伝来した拳法である。沖縄の「空手」はその後「空手道」として日本の「道(どう)」文化の大きな柱の一つになったのである。

 日本人は、特に日本の若い人たちは、自分たちの先祖・父祖が築いた日本発祥の日本古来の伝統文化について学習し、外国人に説明ができるようになるべきである。日本人が自国の伝統文化についてよく知るということは、日本という国家がどのように進化しているかということを知ることでもある。日本人は戦後何を失い、何を得たのか、失ったものの中に取り戻さなければならないものは何なのか、得たものの中に棄てるべきものは何なのか、よく考えなければならない。日本人は自らの伝統文化についてよく知れば、何を取り戻し、何を棄てるべきかの判断基準を得ることができる筈である。

 日本には「道(どう)」の文化がある。それはその「道(みち)」に根差した精神的なものである。大工にも大工道がある。左官には左官道がある。ラーメンは日本で起こった文化の一つであるが、一杯のラーメンでもそれをいかに美味しいものにするかはその食堂のラーメン職人の腕次第である。ラーメンの修業者には「ラーメン道(どう)」という修業の道(みち)があると言える。何事でもその道(みち)一筋に精進した者は称賛され、その中でも社会に対して特に顕著な功績があった者に対しては天皇陛下から褒章が授けられる。

 日本人が工業分野で独創性を発揮し、他人が真似できないような物を開発し、他人が真似できないような品質の製品を作ることができるのは、日本の伝統文化と無縁ではない。日本人がものづくりの現場・工事の現場・作業の現場において他人に批判されないような仕事をするように心掛けるのは、日本の伝統文化と無縁ではない。

 直感的には、日本人の「道(どう)」の精神は究極のところ天皇という一点に収斂されると言えるだろう。ただしそれは天皇への崇拝という意味では全くない。日本という風土の中の精神は本人が自覚していようといまいと、「日本一家の一員」であることに根差すものである。その「日本一家」の中心に「天皇」という抽象的かつ具象的な存在がある。そういう意味で上記のように「収斂される」と言えるのである。世の中にはそのような観方を批判する人たちがいるだろうが、世界には頭で考えても完ぺきに把握できず、一点の批判も受けないように完ぺきに説明できないようなことがある。日本人の「道(どう)」の精神はそのようなものである。

 人は何事においても「道(どう)」を実践しなければ、その精神を体得することができないものである。ヨーロッパ人でその「道(どう)」を実践して、その精神を体得した人は沢山いる。中には師範になって逆に日本人にその「道(どう)」を教えている人も何人かいる。特に日本の国技である相撲においてはアメリカのハワイ出身の力士やモンゴル・ヨーロッパ・ロシア・エジプトなど出身の力士が大いに活躍していて、横綱・大関に昇進し、その後親方になり後輩の日本人の力士たちを指導している人たちがいる。彼らは日本人以上に日本人的である。

 欧米人の間には日本の伝統武道に親しむ人たちが非常に沢山いる。オリンピック競技種目になっている柔道は別にして、左欄YOUTUBE動画にあるように合気道や空手道に親しむ欧米人は多い。特に「道(どう)」の精神について、日本人と欧米人の間で共通の認識が得られているのは何故なのか。日本人、特に日本の若い人たちはそのことについて一度考えてみるべきである。