2015年12月18日金曜日

20151218「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(2)   ―― 母の命日 ――


 1218日は、私の生母の命日である。母は昭和21年(西暦1946年)のこの日、享年33歳でこの世を去った。母は大正3年(1914年)110日生まれであったから、享年は殆ど満年齢に近かった。死因は乳がんであった。

 叔父が二度目の出征前の昭和18年(1943年)に実家で祝言を挙げたときの集合写真がある。その叔父の長兄である私の父は当時朝鮮で国民学校(小学校)の訓導(教師)をしていて、青年訓訓練所の指導員もしていた。父は母と私たち兄弟及び乳飲み子だった妹の3人の子供を連れて一時帰郷し、その祝言に参加していた。祝言には近所の方々が手伝いにきてくれていて、仏間とそれに続く座敷で行われた。当時はそのような儀式があるときの会食には一人一人のお膳があり、その料理を作ることやお膳を並べることなどを近所の方々が手伝っていた。

 それから2年後日本は戦争に敗れ、母と私たち子供3人は終戦直後朝鮮から引き揚げてきた。当時国民学校長や青年特別訓練所所長・女子青年錬成所長などをしていた父は朝鮮に残留し、9月末に帆船で引き揚げ、博多に上陸した。そのとき既に母の乳房にはがんが出来ていた。母の乳房には小さいおできのようなものが出来ていた。母は別府の病院で片房ずつ両方の乳房を切除する手術を受けたが既に手遅れで、翌年のこの日(1218日)にこの世を去った。その時私は9歳、弟は7歳、妹は3歳であった。

 母は入院中見舞いに訪れた私と弟にマグロの刺身のお茶漬けを作って与えてくれた。米は入手困難であったに違いないが白米のご飯であった。その米は祖母が父に託したものであった。父は当時38歳であった。私たち兄弟は父に連れられて一面焼け野原になっていた大分市街地を路面電車に乗って別府に向かった。焼け野原は戦時中米軍による無差別爆撃によるものである。当時55歳であった祖母も米軍機による機銃掃射を逃れて橋の下に避難したことがあった、という話を私は祖母から聞いている。

 人はこの世に生を享け、いずれは草木が枯れるように枯れて朽ちてゆく。草木は若い芽を出していずれ土に還るがその期間は一定でないように、人の一生も同様である。戦斗や戦火により短い生涯を終えた人も、生きながらえて天寿を全うした人も同様である。しかし、人は特異な死に方をした人のことを生涯思い続けるものである。人は志をもって短い生涯を駆け抜けた人のことを特別な思いで想うものである。私の母にも志があった。母は死の直前私に死に際の有り様がどうあるべきか示してくれた。侍の子孫であった母は私たちにがんの苦痛のことを全く示さなかった。そのことが私の精神的支柱を形成している。

 病院から見放され私の祖父母の家で死の床についていた母の背中には一面に多数のこぶが出来ていた。母は私に「起こしておくれ」と言い、私が母を床から起こしてあげると「背中をさすっておくれ」と言っていた。しかしこの日(19461218日)には「背中をさすっておくれ」とは言わず、「東を向けておくれ」と言い、「御仏壇からお線香を取ってきておくれ」と言い、私がそのようにしてあげたら、今度は「お父さんを呼んで来ておくれ」と言った。私は裏山で地面に落ちている枯れ松葉をかき集めに行っていた父を呼びに行った。父と共に戻って来たときには母は布団の上に寝かされていて、既に死んでいた。

 先祖が同じである新宅のH叔父さんは私たち小さい子供3人に「真剣にお経を上げるとお母さんに会えるよ」と言っていた。私たちは「帰命無量寿如来」で始まる七言絶句の長詩を暗唱するほど、毎日仏壇の前で熱心にお経を上げていた。

 私は前世・現世・来世にわたる因果応報を確信している。これまでの人生を振り返ると、「あの時は亡き母が守ってくれたに違いない」と思うような危険なことも何度かあった。私は、今享受している幸せは母や先祖の導きによるものであると思っていつも感謝している。

 私は、「人は死んでもその意識は無くなることはない。今生きている自分が意識をその死んだ人に向けるとき、過去に生きた人の意識は今生きている自分の意識と共鳴・共振する。意識には自分自身が気づかない深層の無意識もある。やがて自分もこの世を去るが、私の意識は後の世に生きる人の意識と触れ合うに違いない」と固く信じている。

 私は、「阿弥陀(Amitāyus無量寿・Amitābha無量光)」(『仏教要語の基礎知識』水野弘元著、春秋社より引用)は、宇宙そのものであると考えている。現代の科学では宇宙は無数に存在しているとされている。その宇宙は一点から光を発し、無数の星々や無数の星雲が生まれ、その星雲の中の太陽系の惑星の一つであるこの地球上に私は生きている。私は、宇宙は一つの「生命体」のようなものであると考えている。

私は、親鸞は釈尊が説かれた真理を紐解き、仏に帰依する方法の一つとして「阿弥陀仏が人々に救いの手を差し伸べて下さっているので、ひたすら阿弥陀仏を信じ、阿弥陀仏にすがりなさい」と教えられたのだと思っている。


私は、人は阿弥陀に全幅の信頼を置けば、人生における「苦」は無くなると思っている。今、母の命日に当り、報身仏である「阿弥陀如来」すなわち「阿弥陀仏」を信じ、手元に阿弥陀仏の画像が無くても心の中でその画像を思い描き、「南無阿弥陀仏」と何度も唱えれば、私の心は自ずと平安になる。真に有難いことである。