2015年12月5日土曜日

20151205「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(1)


 この二ヵ月半ばかりの期間、非常に多忙であった。7月に96歳の誕生日を超えた母は、9月末、体調に変化が生じ、一週間後他界した。その母は私が13歳のとき父の後妻としてわが家に嫁いできた。その翌年、父母は生後5か月の乳飲み子を連れて実家を去り、山奥の村の小学校の助教諭として赴任した。父は3年後正規の教諭に復帰することができたが、それまでは助教諭の身分で、自分よりずっと後輩の校長の下、親子三人で懸命に生きた。私は今から何十年か前、その母から自分の半生を綴った手紙を貰っていた。それには母の苦労話が書かれていた。

母は60歳の時、30年間連れ添った夫、つまり私の父が他界した。それ以降、母は一人暮らしをしながら家を守っていた。母は84歳の時大腸がんに罹ったが、その時は手術でその腫瘍を取り除いた。その一年後大腸がんが再発したが、そのときは抗がん剤の投与により完治した。しかしその後母は微熱を出すことが多くなり、認知症の症状も出始め年月を経るにつれその症状は進行した。84歳になって大病を患って以降、母は訪問介護・デイサービス・ショートステイなどのサービスを受けていたが、94歳のとき地域密着型の特別養護老人施設に入居した。母は他界する4か月前、携帯トイレ使用時に大腿骨脛部を骨折して4週間ほど入院していた。退院後、母は施設内で車いすを利用する生活になった。

私たちは毎夜8時半過ぎに施設に入居中の母に電話をかけていた。電話口で母は「皆とおしゃべりしていて今(自分の部屋に)戻ったところ。よく歩けるし、よく食べれるし、毎日楽しくて仕様がない。皆元気かえ?」と言うのが口癖であった。施設からの電話で母が「微熱を出した」と連絡を受けて、私はその施設に依頼して、母が父の他界後その施設に入居する前までの間ずっとお世話になっていたK病院に母を入院させた。K病院は母が父他界後35年間ほど独り暮らしをしていた家の近くにある。私たちはその家から毎日K病院に通い母を見舞い、母と会話を交わしていたが、母が急変したのは死亡する前日のことであった。その時母は「入れ歯をしたい」とか「トイレに行きたい」などとぐずっていた。それが最後であった。

その母が死んで仮通夜・本通夜・告別式が終わり、その後「中陰」という七日ごとの法要を檀家になっている寺の住職(「ご院家さん」と呼ぶ)に自宅に来て頂いて行い、七七日(「満中陰」、一般に「四十九日」と呼ばれる)の法要が終わって一先ず忌明となった。その法要の後、近くのホテルで法要に参列した家族・親族・ご近所の方々がご院家さんを囲んで会食し、会食が終わった後に予め用意してあった菓子包みを参列者全員に配り、「香典返し」や弔電へのお礼など済ませてようやく一連の行事が終わった。

都会では主に家族だけで行う仮通夜をしないし、初七日は告別式の直後に行い、その後も七日ごとの法要はしない。しかし私はそれは間違った習慣であると思っている。葬儀・法要を「儀式」の側面のみをとらえて考えるのか、仏教の深い教えに触れることができる機会であると考えるのか、その違いによって人々の意見が分かれる。いわゆる「葬式仏教」という悪い文化を生み出したのは、僧籍にある人たちの堕落と、人々の間違った観念・習慣によるものである。貧しければ貧しいなりにも法要はきちんと行われるべきである。

仏教は古代インドで起こり、中国・朝鮮を経て日本に伝わり、日本で興隆した。報身仏である阿弥陀仏にひたすら帰依し、自らの精神を高めて行く「他力本願」の信仰は戦前までの日本人の精神を形作っていた。一方、厳しい修業により仏の法に近づこうとする「自力本願」の信仰も日本人の精神要素の一部になっている。その他現世ご利益にすがろうとする信仰も根強いものがある。


親鸞も日蓮もそれぞれ釈尊(お釈迦さま)の教えを紐解いて人々に伝えているものであって、決して親鸞や日蓮がそれぞれ自ら新たな宗教を生み出したわけではない。私にとって、親鸞の教えは最高である。私は阿弥陀仏にすべてを預けていて、非常に心やすらかである。お蔭様で私は「これが神通力なのだ」と思うようなことを毎日のように経験している。それは観方によっては「たまたま起きた偶然のこと」かもしれないが、私はそれを「起きるべくして起きた必然のこと」と受け止めている。私は生老病死他「愛別離苦」「求不得苦」などの四苦八苦をそのまま受け入れるつもりである。たとえ自分に、或いは自分の身近な人に、思いもよらぬことが起きたとしても、私はそれを従容として受け入れる心がけでいる。