2016年12月4日日曜日

20161204帰命無量寿如来・南無不可思議光


表題は七言絶句の長詩のようなお経、親鸞聖人が作られた『正信偈』の最初の第一句と第二句である。私は、親鸞聖人は最初のこの二つの句をもって、先ず浄土真宗の教えの根本を述べられたものであると考えている。

 『帰命無量寿如来』とは、『「‘無量寿’即ち‘阿弥陀(Amitāyus) ’である‘如来(tathāgata) ’即ち‘仏(Buddha) ’」に「‘帰命(namas) ’即ち‘「身命を捧げて仏陀に帰依する’」』という意味である。「帰依」は「神仏など絶対的なものに服従し、これにすがること」である。

『南無不可思議光』とは、『「‘不可思議’即ち‘①思いはかることもできず言葉でも表現できない・②考えても奥底を知り得ない・③不思議’」な「光」に「‘南無(namas)’即ち‘帰命’と同じ意味であるがそのような気持ちで敬礼(きょうらい)する」』という意味である。「敬礼(きょうらい)」は「うやうやしく礼拝すること」である。(用語の意味の出典:『仏教要語の基礎知識(春秋社)』と『広辞苑(岩波書店)』)

 従い、表題の二つの句全体では「身命を捧げて阿弥陀如来におすがりし、不可思議な光を仰いでこれにうやうやしく礼拝する」という意味になる。西本願寺派ではこの部分を五七調で「ひかりといのちのきわみなき 阿弥陀(あみだ)ほとけを仰(あお)がなん」と和歌のようにしている。

 私は「不可思議な光」は、一切の疑念も抱かずに一心不乱に阿弥陀仏におすがりすれば、必ず感じ取ることができるものであると確信している。その光は形而上学的な概念の、自分だけしか感得できない、言葉では言い表せず、伝えることもできない、或いは言葉にして話せば誤解されてしまうようなものであると思っている。因みに「形而上学」とは「現象を超越し、またはその背後に在るものの真の本質、存在を純粋思惟により、或いは直感によって探求しようとする学問」である。これはマルクス主義を「科学的社会主義」と呼んでそれを活動の理論的根拠としている日本共産党が絶対受け容れられない学問であるに違いない。

 「不可思議光」は、合理主義・科学万能主義に毒されている現代人にはなかなか理解できないものである。しかし、そのような人でもせめて丸一日、早朝から深夜まで何処かのお寺のお堂にこもり、一心不乱に『般若心経』でも唱え続ければ何かをつかみ取ることができるかもしれない。「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え続ければ必ず得るものがあるに違いない。

 浄土真宗のお経『正信偈』には、「遊煩悩林現神通・入生死薗示応化」という句がある。その意味は大雑把に言えば、「阿弥陀仏に帰依した人は煩悩のまま神通を表す。その人にとって現世は即ち浄土である。そのような人は現世で苦悩している人を救う」である。

キリスト教では「誰でも情欲を抱いて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである(Anyone who looks lustfully at a woman has in his heart already committed adultery with her.)」と教え、煩悩を認めてない。またイスラム教では神が命じた戒律に従うことが強く求められている。一方、親鸞聖人が今から約810年前に確立された仏教の教えは、私は世界で最も優れた宗教であると確信している。その教えは今から2600年ほど前釈迦牟尼が確立された教えに完全に沿っているものであることは確かである。


奈良時代に聖武天皇は当時の総合大学である東大寺を建設された。そのお蔭で今日日本では仏教と言う精神文化が根付いている。親鸞会はその布教方法を巡って批判されているが、仏教の儀式の面よりも仏教そのものを大切にする運動は歓迎されるべきことである。仏教のお寺も僧侶も空気を食べて生き残ってゆくことはできない。そのため仏教教団各派の活動がある。私は既存のどの派にも所属せず「浄土真宗自分派」の「独り会」を続けようと思う。親鸞の教えは私の身近な者たちから次第に伝わってゆくことを期待して・・・。