2017年1月26日木曜日

20170126『仏説阿弥陀経』について(8)


 好意を受けることが続くと、それは自分の権利だと思うようになる。しかしそれは「Give and take」 の関係ではないので、好意を受け続けることは心地よいものではない。そこで、「相手の好意に対して感謝しなくても良い」、という論理を無意識のうちに自分の中で組み立てる。そのようにして自尊心を守ろうとする。

 国家と国家の関係においても同様のことが言える。トランプ大統領が現れて日本はアメリカの核の傘に守られていることをこれまで「権利」だと考えて来なかっただろうか?彼が大統領候補であったとき、彼は日本の核武装を容認する発言をした。

この発言は見方を変えれば、アメリカが日本に対して同盟国としての好意を寄せ続けた結果、日本はアメリカの核の傘に守られ続けることを当然の権利だと考えてしまっていることに気付いたことを示唆するものであったと言えないだろうか?同盟関係の軍事力の面の「Give and take」において、日本はアメリカと対等の関係にあるだろうか?

 ところで、日本が戦後好意を与え続けた国々が、今日本に対してどういう態度に出ているだろうか? 反日は彼の国々の自尊心の裏返しではないのか? 人と人との関係においても「Give and take」を重視しない関係が続くと何かのきっかけで必ず対立が起きる。

 「Give and take」は契約の世界の言葉である。トランプ大統領は自分が自分の支持者に約束したことを早速実行に移している。日本では「表と裏」「本音と建前」がまかり通っていて、トランプ大統領が大統領になる前に支持者に言っていたことは、必ずしもそのとおりにはならないだろうと楽観している雰囲気があった。しかし彼は自分の支持者に約束したことを着実に実行している。

 日本では、儀式仏教が流行(はや)り、人々は仏前・神前で神妙な顔をして現世利益・来世利益を求める文化があるので、「契約」と言う言葉に対する認識がピンからキリまである。その「ピン」の方では、日本には万世一系の天皇がいて、武士の時代もあって、公と私の別が明確であり、公において約束したことは必ず守られるべきことであるとする文化がある。しかし政府間の約束事を守ることができない文化が幅を利かせている困った隣国もある。

 「Give and take」は、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という一神教の世界で重要な言葉であるに違いない。契約は神との約束ごとである。 阿弥陀仏(Amitāyus buddha)・阿弥陀如来(Amitāyus tathāgata)を信仰の本尊とする真宗においても、我々衆生と阿弥陀仏・阿弥陀如来との「Give and take」がある。私は学者ではないので、衆生の一人としてそのように考える。

 阿弥陀仏の本願は、真宗大谷派がネット上で説明しているように、「自分が受け取る利益と、他の人が受け取る利益とが一つになる」ことである。迷いの世界にある我々衆生は、阿弥陀仏・阿弥陀如来を心底から信じ、阿弥陀仏・阿弥陀如来に救いを求める行いをすることにより、「永久(とわ)の闇(やみ)より救(すく)われる」(『真宗宗歌の歌詞』)のである。私は、我々衆生が阿弥陀如来を心から信じ、阿弥陀仏・阿弥陀如来に救いを求める行いをすることは阿弥陀仏・阿弥陀如来への「give」であり、その「give」により我々衆生は「永久(とわ)の闇(やみ)より救(すく)われる」ことを「take」するのである、と考える。

ここで「如来」とはtathāgataの義訳であり、「如実に来れる者・如実より来れる者」という意味であり、「真如法界から来たって真如を語り、真如の教化活動などの生活をし、真如に去り行く者」のことであり、仏陀(Buddha)の同義語である。「真如」とは「あるがままの真理」である。「理体」とは「万物の本体」のことである。「衆生」とは「生きているものすべて」である。「一切の存在は、一心の理体から顕現する」という仏教上の縁起説がある。(用語の意味は春秋社刊水野弘元著『仏教要語の基礎知識』及び『広辞苑』による。)

「西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ」(浄土真宗本願寺派龍泉山 吉祥寺がインターネット上に公表している『仏説阿弥陀経』の現代語訳を引用)。その西方・東方・北方・南方・上方・下方にはそれぞれ数えきれないほどの沢山の仏様がおられる。その仏様たちはそれぞれの国において広長の舌相を出し、あまねく三千大千世界に覆いて誠実の言を説き、不可思議の功徳を称讃している一切の諸仏に護念されている経を信じなさい、と言って聞かせておられる。

阿弥陀如来の本願に応えて仏様の教えを信じることは阿弥陀如来に自分を委ねるという、「give」である。この「give」により、親鸞聖人が『顕浄土真実教行証文類序(教行信証・総序)』で述べておられる「阿弥陀仏の本願は渡ることのできない迷いの海を渡して下さる大きな船」に乗ることができるという「take を得る。

これは一神教における神との契約とは別次元の、阿弥陀仏と我々衆生の間の「Give and take」関係である。これは現世ご利益・来世ご利益を得るという「take」だけを求める儀式仏教とは全く違うものである。


初めに戻るが、日本は、「take」だけを求める国との付き合い方を考え直した方が良い。