2017年4月27日木曜日

20170427『仏説阿弥陀経』について(17)


日本で仏教を広めるため最初に尽力されたのは聖徳太子である。聖徳太子は二十歳のとき推古天皇の御世(西暦593年〜628年)の皇太子で、厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)という名前であった。『日本書記』には厩戸皇子に「録(まつりごと)摂政(ふさねつかさど)らしむ。万機(よろずのまつりごと)を以て悉(ことごとく)に委(ゆだ)ぬ」とあり、厩戸皇子は推古天皇に代わって政治を行っていた。『日本書記』には、厩戸皇子は「内教(ほとけのみのり)を高麗(こま)の僧(ほふし)慧慈(ゑじ)に習(なら)」とある。

『日本書記』には推古天皇の三年(西暦596年)に「高麗(こま)の僧(ほふし)慧慈(ゑじ)帰化(まうおもぶ)く。則(すなはち)皇太子、師(のりのし)としたまふ」とある。なぜ、元正天皇の御世・養老四年(西暦720年)五月に完成した日本の正史『日本書記』の記述が「高句麗」でなく「高麗」なのか謎である。

聖徳太子が師事した慧慈は仏教の真髄を正しく把握し、正しい仏教を習得した高僧であった。聖徳太子は慧慈に八年間師事して仏教の真髄を学び、これによって仏教的な世界観や人生観を確立し、仏教の正しい信仰に徹することが出来た。(前掲『仏教要語の基礎知識』による。)

『日本書記』には高麗と書かれているが高麗の建国は10世紀であるから私は高句麗が正しいのではないかと考える。高句麗は朝鮮半島の北部にあった国である。高句麗と百済の支配層は同族であり、現在の中国東北部(満州)にあった国・扶余の出身であったと言われている。百済は西暦663年に滅び『日本書記』には合計3,100人余りの百済人が日本に渡って来て、現在の大阪・滋賀・愛知・岐阜あたり(古代で「東国」と呼ばれた地域)に居住したことが書かれている。当時、百済には「倭人」と呼ばれた日本人も住んでいたようで、上記3,100人余りの中には倭人も含まれていたかもしれない。

高句麗は西暦663年の白村江の戦いで百済が滅びて孤立し、西暦668年に中国唐王朝により滅ぼされ、高句麗の北部の民は現在の北朝鮮北西部に隣接する中国遼寧省朝陽県に強制移住させられた。高句麗に遺った民は高句麗の再興を図ったが全て失敗した。高句麗の遺民の一部は日本に渡って来た。『続日本紀』によれば、元正天皇の御世の霊亀二年(西暦716年)に、現在の静岡・神奈川・千葉・茨城・栃木各県に居住していた高句麗遺民1799人を現在の埼玉県北部に「移住させ、初めて高麗郡を置いた」とある。

日本には高句麗滅亡後新羅からも僧侶など人々が渡って来ている。『続日本紀』に天平宝字二年(西暦758年)に「帰化した新羅僧32人・尼2人・男19人・女21人を武蔵国の未開発部に移住させた。ここに初めて新羅郡を設置した」とある。新羅郡は後に新座郡と改められた。

『続日本紀』には、孝謙天皇の御世、天平宝字元年(西暦757年)に「高麗・百済・新羅の人たちで以前より聖化(天皇の徳化)を慕って来朝し、わが国の風俗になじみ、姓(氏)を給わることを望む者は、すべてそれを許し認めよ」とある。ここでも「高麗」となっている。

千数百年も経てば2n(注:nは世代数、例えば一世代を25年とすれば100年で四世代、千年で40 世代となる)で拡散するので、縄文人の遺伝子を基層としている現在の日本人の遺伝子の一部に日本に渡って来た百済人・高句麗人・新羅人の遺伝子が含まれていることは間違いないだろう。皆、同じ母から生まれた「同胞」になっている。

江戸末期の漢学者・歴史家・詩人・書画家・頼山陽は、その作詞『百済を復す』の中で、「唐と吾と孰(いず)れか得失 忠義の孫子(そんし)海を踏みて来り 長く王臣と為(な)りて王室を護る」と詠っている。この詩の「王室」は「皇室」のことである。日本が42,000人の兵と800隻余りの軍船を送り、百済の兵5,000人と共に当時の中国・唐と朝鮮の新羅の連合軍と戦った西暦663年の白村江の戦いに敗れ、滅ぼされた百済から日本に渡ってきた人々は日本の朝廷に貢献したことが『日本書記』に記述されている。

余談であるが、Wikipediaによれば“『扶桑略記』には寛平6年(884年)の9月(旧暦)に新羅船45艘は対馬を襲ったが、日本は大宰府の奮戦で、これを迎撃して危機を脱した。合戦後の捕虜となった新羅人の賢春は尋問で、前年来の不作により「人民飢苦」の状態が続き、新羅では「王城不安」だったと答えている”とある。

ところで百済・高句麗の支配層は現在の中国東北部(満州)にあった国・扶余の出身である。日清戦争の時の「清」は女真族が建てた当時の中国であり、日清戦争後日本が進出した満州も元々女真族が建てた地域であった。私は現在の東アジアの状況を観ずると国際社会の中の「宿縁」を感じざるを得ない。

さて、仏教の経典が釈尊没後どのような過程を経て成立したかということはWikipediaに示されている。釈尊(釈迦牟尼 Sākyamuni サークヤ族の聖者)がこの世を去られて直ぐ、「僧伽、サンガ」と呼ばれる出家者集団で個人個人が釈尊から聞いた釈尊の言葉を集める作業(結集)が、マハーカッサパ(魔訶迦葉尊者)が中心になって行われた。聖徳太子が高句麗の高僧から学んだ仏教のルーツはこの結集にあるのである。