2017年6月20日火曜日

20170620再び『男は』シリーズ


 随筆『男は』シリーズは20141218日を最後に止めていた。しかしこのところある思いあり、今後しばらくこのシリーズを続けることにする。「男は」で始まる散文は自分を客観視した日記のような文学作品でもある。齢70もなって今更「男」はないだろうと、一時主語を「老人」に変えたことがあったが後に再び「男」に戻した。齢80にもなって再び「男」の日記のような文学作品を創作するのはどうかと思われるが、自分の余命は10年前後であろうと思われるこの身、気にすることはあるまい。この文学作品の登場人物は「男」・「女房」であり、その他の人物は括弧無しのアルファベットとし、地名などはローマ字の頭文字を冠した地名とする。

 さて、男は先月満80歳になった。日本では数えの61歳を還暦、数えの70歳を古希、数えの77歳を喜寿、数えの81歳を傘寿、数えの88歳を米寿、数えの90歳を卒寿、数えの99歳を白寿と呼ぶ。従い男は傘寿を無事迎えたことになる。

 男は先月千葉に住む同じ歳の竹馬の友Sと久しぶりに会い、Y港の観光船ロイヤル・ウイングの船上で飲食しながら語り合っていたとき、病で倒れた竹馬の友Tのことが気になった。そこで男はSの隣でTの奥さんに電話を入れた。すると奥さんは「主人は先月24日に亡くなりました」と言う。Tの奥さんはTが男やSに会いたがっていると言いながらいろいろ事情があるらしく男やSを自宅に呼ぼうとはしなかった。Tが死んだ時Tの娘さんが「Aさんに知らせなくては」と言ったそうだが、Tの奥さんは「Aさんには友達の誰某から連絡が行く筈と思っていたから電話しなかった」と言う。Aさんとは男のことである。奥さんは「主人の納骨は〇月〇日です」と言う。男はTの納骨の儀式に出る気にはなれないので「ああそうですか」と言ってそれ以上の会話は打ち切った。

 男はTが入院中三度Tを見舞った。Tは倒産したY証券会社の部長をしていた。Tはかつてその会社で中国関係の仕事をしていたので中国語が得意であった。ある日男がTを見舞ったときTは中国の憲法を原文で読んでいた。Tはボールペンによる絵も描いておりその描画もなかなか上手であった。男はTに「この絵はとてもよく描けているぜ。お前はこんな素晴らしい絵を描けるのだからきちんとしたスケッチブックに描いて遺しておくべきだよ」と言ったことがあった。男はTのことを思い出しつつTの哀れな最期のことを思った。

 在京の竹馬の友は7、8名いたがそのうち4人他界した。その一人がTである。一昨年は同じ歳のFが他界した。FもTも男とSの親友であった。Fは悪性のがんを患っていた。男はSと一緒に入院中のFを見舞ったとき男もSもFの変わりように非常に驚いた。Fはすっかり老け込んでいてその顔にはほとんど生気がなかった。

Fを見舞った後、SはFの奥さんと話したくてその奥さんを近くの寿司屋に誘った。以前Sは自分の内縁の妻Kさん・男と女房・F夫婦を銀座のあるフランス料理店に誘って食事会をしたことがあった。男とSはFの奥さんに会ったのはその時以来のことである。Fはその後10日もしないうちにこの世を去った。Fの葬式はFの家族だけで行われたので男もSもFに最後に会ったのは入院中のFを見舞った時であった。

 男とSの郷里には竹馬の友が沢山住んでいる。皆、小学校・中学校の時の同級生たちである。男は一昨年他界した男の継母が独り暮らしで存命中、毎年頻繁に帰郷していた。そのとき男は竹馬の友だちにも良く会っていた。Sもたまに帰郷していた。男やSが帰郷するたび竹馬の友だちがいつも5、6人以上「こつこつ庵」という一風変わった名前の店に集まって昔の思い出や同級生たちの消息などいろいろ語り合っていた。

 その竹馬の友だちも殆ど皆何か健康上の問題を抱えている。腰が曲がった同級の美女もいる。認知症になってしまった男の幼馴染みのAちゃんもいる。皆一様に齢相応に老けている。Sも心筋梗塞などの病気で何度も入院した身であり歩行もスムーズでない。一見元気そうに見えるのは男だけになった。

先月末、息子たちが男の傘寿を祝ってくれた。53歳の長男と50歳の二男がそれぞれ家に妻子を残し、男と女房を二泊三日の青森旅行に連れて行ってくれた。これは昔の親子四人だけの旅行であった。実はこのような昔の親子四人だけの旅行は二度目である。今回は往復新幹線利用の旅であったが、前回の女房の還暦祝いのときは往復を長男が運転する三泊四日の青森旅行であった。宿泊した宿も前回と同じであった。男と二人の息子たちは宿の一室で酒を酌み交わしながらいろいろ語り合った。

男もいずれそう遠くない時期にこの世を去る身である。男も女房もよく語り合い考え方が一致していることがある。それは「とても幸せなよい人生だった。何時死んでも良い。思い残すようなことは何もない」ということである。「いつ死んでも悔いはない」と言う女房はある意味男の一族の太陽のような存在である。

男と女房・長男夫婦・二男夫婦の6組のとても良い人間関係の中心は正に女房である。男は女房のお蔭でこれまで良い人生を歩むことができたと思っている。男は過去に女房に大変苦労をかけ、女房を悲しませたりしたことも多々あったので、自分の余生の時間のできるだけ多くを女房と同じ空間の中で共有することに決めている。