2018年9月2日日曜日

20180902弥生時代の出来事を想像する ―― 『古事記』を読む ――


20180902弥生時代の出来事を想像する ―― 『古事記』を読む ――

 岩波文庫版『古事記』によれば、
①伊邪那岐命(イザナギノミコト)の妻・伊邪那美命(イザナミノミコト)が葬られた場所は、「出雲國と伯伎國との境の比婆の山」である。脚注には「広島県比婆郡に伝説地がある」とある。
②一方、イザナミノミコトがいる場所は「黄泉国」である。イザナミノミコトは「黄泉比良坂(よもつひらさか)」に「千引(ちびき)の石(いわ)」を置いて、自分に会いに来た夫・イザナギノミコトに別離を言い渡している。
③イザナギノミコトは、妻・イザナミノミコトの「この世」の姿を今一度見たくて、殯宮という遺体の安置場所に入ったら「蛆(うじ)たかれころろきて(宇士多加禮許呂呂岐弖)」、愛する妻の変わりように驚いて逃げた。
④宮崎県の高千穂の峰に天降ったニニギノミコトは鹿児島県の笠沙の岬に立って「此地(ここ)は韓国に向ひ、笠沙(かささ)の御前(みさき)を眞來(まき)(とほ)りて、朝日の直刺(たださ)す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚(いと)吉(よ)き地(ところ)」と仰った。
⑤日本各地にその存在の痕跡がある安曇族について、「綿津見(わたつみ)の神は、阿曇連等(あずみのむらじら)の租神(おやがみ)」と書かれている。

『隋書巻八一東夷傳・倭國(隋書倭國傳)』(岩波書店)に、「死者斂以棺槨、親賓就屍歌舞、妻子兄弟以白布製服。貴人三年殯於外(死者を斂(おさ)むるに棺槨(かんかく・そとばこ)を以ってし、親賓屍に就いて歌舞し、妻子兄弟は白布を以って服を製す。貴人は三年外に殯(もがり)し)」とある。竹田恒泰著『古事記を読む』には、“黄泉の国の物語は、殯宮での出来事だったのかもしれない”とある。

因みに、殯(もがり)とは、「日本の古代に行われていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること」(Wikipedia)である。

現代人は意識を理性的に捉えるが、古代人は意識を時空を超えた世界にまで感覚的に捉えていたのかもしれない。芸術家は事象を古代人のように捉え、作品に仕上げていると考えられる。だから人々はそういう芸術作品を鑑賞して、想像を膨らませて、その意識を時空を超えた世界にまで延伸して感動するのである。

古代人は何事も感覚的に認識していたに違いない。古代では死者が白骨化し、確実に生前の形が無くなったことを確認して、初めて「この世」の人が「あの世」に逝ったのだと認識したに違いない。

 『古事記』に書かれている阿曇連(あずみのむらじ)を祖とする人々の先祖は、弥生時代以前に長江中流域からやって来た人々であったのではないだろうか?私は次のように想像している。
(a) 彼らは縄文人と混血し、「倭人」と呼ばれていた人たちとなった。
(b) 彼らの先祖は先ず九州南部で勢力を広げ、豊後水道沿いに勢力を拡大し、九州北部を 拠点にして朝鮮半島にも進出していた。
(c) 九州南部で勢力を広げていた「倭人」たちの中からカムヤマトイワレヒコ(神武天皇)という英雄が現れた。
(d) ヒミコは安曇族が与した磐井氏に縁がある人であった。

 神武天皇から数えて15代目の応神天皇の五世の男系直系子孫が継体天皇である。応神天皇の母は神功皇后である。『古事記』にも『日本書紀』にもヒミコのことは出ていないが、天照大神と神功皇后のことは出ている。ヒミコを天照大神とする説があり、私もそう思ったことがあって、以前このブログにそのように書いたことがあった。しかしヒミコは中国人が中国の歴史書に書いた人物の名前であって、実は記紀の神功皇后その人ではなかろうか、と今私はそう思うようになった。

                                   (続く)

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