2018年1月23日火曜日

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2018年1月19日金曜日

20180119相撲と相撲道(Sumo-Do)


相撲は武道である。それゆえ取り組みの相手を倒すため「かち上げ」・「張り手」などの技も使われる。

武術(bujutsu)は武道(budo)とは異なる。武術(bujutsu)は相手を殺傷する術である。しかし武道(budo)は相手を殺傷しない。そのためお互い防具を装着し、剣先が確実に相手を殺傷するほどの威力があったかどうかで勝負が判定される。

相撲も相手を殺傷するほどの技が用いられれば武道(Budo)ではなく武術(Bujutsu)となる。相撲は相手を殺傷しない範囲で技を用いることが許される。相撲道(Sumo-Do)とは相撲をとる人が力士(Rikishi)として「最高の善」を目指して精進する過程である。

横綱にまで昇進した力士が後輩の力士を素手で殴ることは相撲道(Sumo-Do)に反する。まして横綱が何か硬い物を用いて後輩の力士を殴ることは絶対に許されることではない。

貴乃花親方(Takanohana-Oyakata)は相撲界にけるそのような相撲道(Sumo-Do)に反することが許されるような風潮に警鐘を鳴らした。ところが相撲道(Sumo-Do)が何であるかを知らない人たちが貴乃花親方(Takanohana-Oyakata)を批判した。彼らは貴乃花親方(Takanohana-Oyakata)に理事を辞任させ、貴乃花親方(Takanohana-Oyakata)が次期理事選挙で当選しても貴乃花親方(Takanohana-Oyakata)を理事にすることを「素直には許さない」、という趣旨の発言をした。メディアはこの発言を批判しない。安倍総理の言動を批判しても。

相撲は日本古来の宗教である神道に基づく神事(Shinji)である。故に力士の髪の形は明治維新後も変わらず「ちょんまげ」の姿である。力士たちは街を歩くとき私服は禁じられ、江戸時代のままの着物・履物でなければならない。

華道(Kado)・茶道(Sado)・香道(Kodo)・書道(Shodo)・吟道(Gindo)も道(Do)がつく日本古来の精神文化である。これらの道(do)では芸能への精進を通じて礼節・知識・技を身につけ、仁愛・慈愛の精神を涵養し、心身共にその道の最高の善を追求しつつ人格を高めるよう修養する。剣道(Kendo)・柔道(Judo)・合気道(Aikido)・弓道(Kyudo)・空手道(Karatedo)等すべての武道も同様である。ラーメンを作る道においてもラーメン道(do)という道(do)の文化がある。

(do)の文化は世界に類例のない日本固有の文化である。このような文化は日本の近隣諸国には全くない。これが日本と近隣諸国との間で精神的摩擦を生んでいる。

武士道(Bushido)ではその究極において自己犠牲を厭わない。即ちその人は「最高の善」を目指す過程において自らの命を捨てることを厭わない。その人は自らの命を捨てた後の名誉を重んじる。その人を後世の人は永遠に尊敬する。その敬意はその人の子孫にまで及ぶ。

相撲道Sumodo)にはそのような武士道(Bushido)の側面もあるから、行司(Gyoji)は自らの命をかけて勝負の判定を行う。その意味で位の高い行司(Gyoji)は脇差を袴の帯に差している。それは行司(Gyoji)である自分が正しくない判定をしたときは自ら切腹する覚悟であることを示すためである。

グローバリズムの流れの中で相撲界には沢山の外国人力士たちが活躍している。外国人力士たちも普通の日本人以上に相撲の精神文化を会得(Etoku)し体得(Taitoku)している。

相撲の土俵の上に女性が上がることは絶対に許されない。似非グローバリズムに毒されていて発言力のある女性に「女性も土俵上に上がることが認められるべきである」と主張されても、それを絶対認めてはならない。


相撲はスポーツの側面があるが決してスポーツではない。この点が最も大事である。相撲は日本古代からの伝統的な精神文化の一つである。貴乃花親方(Takanohana-Oyakata)の理事解任は間違っている。相撲という精神文化の中には女性が絶対入り込んではいけない部分がある。しかしこれは女性を軽視していることではない。男は孤軍奮闘している貴乃花親方(Takanohana-Oyakata)が相撲界を本来あるべき姿に戻してくれることを望んでいる。

2017年12月31日日曜日

20171231「浄土(Jodo(pure land))で会える」という意味


 ある大変親しくしていた元上司の葬儀に出席した。その葬儀は浄土真宗本願寺派(Jodo-shinshu Honganji sect)による儀式で執り行われた。そのとき思ったことがある。

 ご院家さん(Goinge-san)(浄土真宗(Jodo-shinshu)の僧侶の呼称)は読経の後、参列者に対し「この方は浄土に旅立った。皆さんも浄土(The pure land)に行けばその方に会うことができる」という趣旨の話をされた。

 浄土真宗の経典の教文の中に「往還回向由他力(Ogen Ekou Yu Tariki)」という句がある。この句の意味は次の通りであると理解される。

① この世に生きている人は自分の善行・功徳を他の人に及ぼしながら、自分がこの世を去ったら浄土(The pure land)に行ってそこで生きたいと願う。
② この世に生きている人は浄土(The pure land)に行った人を再びこの世に還らせ、その人に衆生を救わせたいと願う。
この二つの願いは阿弥陀如如来(Amitābha又はAmitāyus)のお力に由るものである。
これは“自分のことよりも他人の幸福を願う”という利他の願いである。

因みに阿弥陀如来(Amitābha又はAmitāyus)とは大乗仏教(Mahayanist Buddhism)の如来(tathāgata)の一つである。如来(tathāgata)とは「この上なき尊い者」と言う意味である。阿弥陀仏(Amitābha Buddha)とも無量光仏・無量寿仏ともいう。(以上Wikipediaより引用。)

 阿弥陀仏(Amitābha Buddha)を信仰し、自分の死後自分は新たな命に生まれかわると確信している人は、「往還回向由他力(Ogen Ekou Yu Tariki)」を実践している人である。その人はこの世に在って既に浄土に生きている。その人は自分の意識を浄土(The pure land)に往生した人と交流させることができる。「浄土(The pure land)で会える」ということは、そういうことである。男はそう確信している。

 ところで、血縁関係にはないがお互いの心と心が良くつながっている人と、実の親子関係にあるがお互いの心と心が良くつながっていない人がいる。前者の関係には「一方が他方に依存する心」がない。しかし後者の関係にはその「子が親に依存する心」がある。この「子が親に依存する心」は義理の親子関係でも観られる。

 自分自身を拠り所とせず、他人に依存する心は不平・不満・怒りの感情を生む。他人を頼みにしてこれに寄りかかろうとする心は無欲とは正反対である。他人に依存する心を持っている人は「往還回向由他力(Ogen Ekou Yu Tariki)」を実践することができない。従ってそういう人はこの世で浄土(The pure land)に住むことができない。

しかしそのような人でも自分の死の間際に阿弥陀仏(Amitābha Buddha)に手を合わせ、阿弥陀仏(Amitābha Buddha)に救いを求めるならば、その人でも浄土(The pure land)に往生することが出来る。浄土真宗ではそのように人々に説いている、と男は理解している。


2017年12月7日木曜日

20171207男の趣味


男は途中で10年間ほどブランクがあったが、既に40年近く詩吟(Chanting of a Chinese poetry or Japan-made Chinese poetry)に親しんでいる。20093月以降男は毎月URL(http://takaban.seesaa.net/)上に自分の吟詠(recitation)を公開していて、このブログにリンクさせている。信風(Shimpū)という名前は男がある詩吟の会で与えられた雅号である。

 先月、そのブログの中で中国の古典について解説した。日本には孔子の直系の子孫も孟子の傍系の子孫もいる。そもそも我々日本人の遠い祖先には黄河流域よりも1000年古い文明を築いていた長江中流域の民がいる。彼らは3000年以上前から徐々に日本に渡って来て、縄文人と混血した。そして彼らは男が言う「変化縄文人」になっていった。

 古代中国の内戦の時代である春秋・戦国時代(紀元前770年〜222年)、平和を求めてこの日本列島に渡ってきた中国人たちが居たに違いない。古代遺跡の発掘調査結果、彼らと縄文人又は男が言う変化縄文人との間で武力衝突があったと考えられる痕跡が一つだけある。しかし彼らも縄文人又は変化縄文人と混血し、次第に古墳時代人になっていった。その古墳時代人の中から初代天皇である神武天皇が現れた。

 『古事記』には次のことが書かれている。天津日子番邇邇藝能命(あめつひこばににぎのみこと)が、「天降坐于竺柴日向之高千穂之久士布流多氣」(「竺柴(ちくし)の日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)のくじふる嶺(みね)に天降りまさしめき」)、・・・「於是詔之、此地者、向韓國、眞來通笠沙之御前而、朝日之直刺國、夕日之日照國也。故、此地甚吉地詔而」(ここに詔りたまひしく「此地(こち)韓国(からくに)に向かひ、笠沙(かささ)の御前(みさき)を眞來(まき)(とほ)りて、朝日の直刺(たださ)す國、夕日の日照る國なり。故、此地(こち)は甚(いと)(よ)き地(ところ)。」と詔たまひて)と。(関連を後述)

萬葉集もそうであるが、古代の日本では漢字を言葉の音に当てはめたものや、漢字本来の意味をそのまま用いたものが使われていた。「久士布流多氣」は「くじふるたけ」に漢字を当てはめたものである。「くじふるたけ」の「たけ」は山岳の岳・嶺(たけ)である。其処は邇邇藝能命(ににぎのみことの祖母で高天原の統治者であり、豊芦原の瑞穂の国の支配者でもある天照大神御神(あまてらすおおみかみ)がお生まれになった場所・高千穂の峰である。この峰は鹿児島県と宮崎県の間にある火山である。

「瑞穂の国」は「みずみずしく美しい稲穂が実る国」のことである。その国は「倭国」と呼ばれていた。倭人たちは当時朝鮮半島に進出していた。韓国南部にはその遺跡がある。

邇邇藝能命(ににぎのみこと)が降り立った笠沙は現在の鹿児島県南さつま市の中の旧来の地名であり、薩摩半島の西端に位置している。邇邇藝能命(ににぎのみこと)がその地について「此処は韓国に向かい、笠沙の岬に近く、朝日が差して、日照があるので、甚だ良い土地である」と仰り、そこに立派な宮殿を建てたのには政治的意味があった。彼は薩摩国阿多郡(現在の鹿児島県日置郡)の豪族の美人の娘と結婚して海幸彦・山幸彦という二人の息子を作り、九州の陸と海の全体を支配する足掛かりを得た。また韓国に進出していた倭人たちから鉄を入手することができた。

 天照大神御神(あまてらすおおみかみ)の弟・須佐之男(すさのを)命の子供・大国主神(おおくにぬしのかみ)は出雲地方を支配した。初代・神武天皇は天皇になる前、薩摩隼人の娘と結婚し子供を儲けていたが、天皇になるとき大国主神の別名である大物主神の子孫の娘・富登多多良伊須須岐比賣(ほとたたらいすすきひめ)命(注、「ほと」という事が良くないので後に「比賣多多良伊須氣余理比賣(ひめたたらいすけよりひめ)」と改められた)を皇后にした。

 笠沙は長江河口から東方に位置し、現在でも長江河口沖合で操業している漁船が操舵の機能を失って漂流した場合、漂着することが可能な場所である。一方、鳥取県淀江町にある角田遺跡で発掘された弥生時代中期の土器に描かれている「船と人物」の絵は雲南省石寨山(せきさいざん)遺跡で発掘された滇(Diān)王国の青銅器に描かれている図柄と似ている。いずれも頭に羽飾りを付けた男たちが船を漕いでいる図柄である。

因みに滇(Diān)王国は紀元前278年から紀元前85年まで続いた王国で、雲南省東部の滇池周辺にあった。その王国は三苗(幾つかの苗族(miáozú))が長江中流域で漢族による圧迫から逃れて建設した国である。明治になっても三苗(幾つかの苗族(miáozú))の子孫は漢民族と争いを続けていた。彼らと日本人との間で文化的に共通するものが多いと言われている。なお其処で発掘された「滇王之印」は福岡県で発掘された「漢委奴國王印」と形式的に同じであるという指摘がなされている。

 日本民族は万世一系の天皇により統合されている。日本人の半数ほどには天皇の遺伝子と同じものがあると言われている。天皇は正に日本人の家の宗家のような存在である。日本を天皇が居ない国にしようという街頭デモが行われている。彼らに同調する思想を持っている人たちがリベラルな政治集団に入り込んで活動していると懸念される。男はブログを通じて「正論」を公に向かって訴え続けて行こうと思っている。


2017年11月16日木曜日

20171116日本と中国は「大人の付き合い」をしながら共に繁栄・発展できる。


 中国の統治体制はある意味「王朝」による統治のようなものである。奈良時代・平安時代の統治体制も「王朝」によるものである。両者の違いは概ね以下のとおりである。

① 中国
現在の中国で統治体制の中枢を担う人たちは、共産党員として頭角を現した人たちが中国共産党全国代表大会で選出される。それ以前は漢族皇帝による王朝・蒙古族皇帝による王朝・満州族皇帝による王朝があった。蒙古族による王朝・満州族による王朝の場合でも実務官僚組織は漢族により維持されていた。

 ② 日本
奈良・平安時代の統治体制の中枢を担う人たちは天皇により三位以上の位階を授与された貴族である。貴族は世襲制であった。この時代の実務官僚組織は貴族と血縁関係がある家柄に出自を持つ者や地方の豪族により維持されていた。

 「中華」とは「世界の中心」を意味する言葉である。中華人民共和国は漢族を中心とするは多民族国家である。漢族は長い歴史の中で周辺多種族との混血が進んでいる。中国人は多人種との混血が多い人種であるが漢族がその基底にある。

 一方「日本」の国号は既に奈良時代の文献に見られる。聖徳太子は当時の中国の隋王朝の皇帝に「日出る国の天子、日没する国の天子に書を致す」と国書を送達している。隋の正史にその記述がある。「日本」は「日出る国」の意味である。奈良時代以前から日本人は縄文人と渡来人が混血した人種であり、現在も世界中の人との間で混血が進んでいる。

日本人は多人種との混血が多い人種であるが縄文人がその基底にある。縄文人は16000年前から3000年前までの13000年の間、北海道から沖縄までの日本列島全体に縄文文化を華開かせていた。縄文人は人類史の中で最初にヨーロッパ人と枝分かれし、大陸を移動後最後に日本列島だけに生き残った特異な人種である。

 中国と日本とは似たところがある。日本への最初の渡来人は長江中流域に文明を開いていた当時の中国人であった。その後古代中国の内戦である戦国時代や後漢が滅亡した後に多くの中国人が日本に渡来してきた。後漢滅亡後や朝鮮の百済滅亡後には朝鮮半島から多くの人々が日本に渡ってきた。後漢滅亡後や朝鮮の百済滅亡後の渡来人のことについては日本の正史『日本書紀』にその記述がある。

 巷の書店には韓国や中国による「反日」活動に対する反感を募らせている記事が満載された書籍が並べられている。男は韓国と中国の「反日」を同一視しない。韓国による「反日」は韓国人の感情に基づくものであり、中国人による「反日」は中国人の理性に基づくものである。前者は韓国人が自らのアイデンティティを目指すものであり、後者は中国人が自らの存続のため自らの支配地域の拡張を目指すものである。

 古代から日本は中国と対等な関係にあった。そのため明治以降日本は中国と戦争をした。しかし韓国との戦争はなかった。日本は当時の中国である「清王朝国家」との戦争に勝利後、韓国との間で三度にわたる協約の締結を経て韓国を併合した。

 今、北朝鮮問題で緊張が高まっている。古代から日本と朝鮮半島の間の緊張関係は絶えることなく続いている。その緊張関係に中国とロシアは大きく関わっている。日清・日露戦争が始まる前、朝鮮半島にはアメリカも関わっていた。朝鮮半島には古代から中国が進出していた。その中国の朝鮮半島に対する影響力は古代も現在も変わらない。北朝鮮にはロシアの影響力も大きい。

 日本は実用主義的な陽明学のお蔭で当時の中国や朝鮮に先駆けて近代化し、当時の先進国欧米列強と肩を並べることができた。日本では朱子学は藩校で教えられていたが、陽明学は私塾で教えられていた。当時の中国や朝鮮では朱子学思想に染まり切っていた。その中国はその思想から脱し、今やアメリカと肩を並べる大国になった。韓国では未だに朱子学思想から脱することができず、事大主義に陥っている。北朝鮮も主体思想一辺倒である。朱子学も陽明学も中国で誕生した学である。

 日本と中国とは古来互いに反発し合ってきたが、古来相通じ合うものも多くある。日本と中国、日本とアメリカ、日本とロシアはお互いに「Win Win」の関係を築き上げつつ地域の平和と発展に寄与することができる大国同士である。



2017年10月29日日曜日

20171029リベラル ―― 北朝鮮への対応 ――


 NHKの日曜討論を視聴した。北朝鮮との交渉について、「これ以上交渉の余地はない」とい言う立場と、「交渉の余地はある」と言う立場の二人の論者の間の議論を聴いて感じたことがある。それは、前者は非リベラルの立場で、後者はリベラルの立場で、それぞれ自分の見解を述べているのだということである。

 北朝鮮の核兵器について、リベラルの立場では北朝鮮の心情を察し、北朝鮮に対する圧力発言が無くなれば北朝鮮は核放棄の交渉に応じるだろうという観方をする。一方、非リベラルの立場では、北朝鮮は絶対に核兵器を放棄しないので交渉の余地はない、という観方をする。北朝鮮は南北統一を達成するため核兵器を捨てることは絶対ないに違いない。

 リベラルの立場の人たちは人間性を信じ、国家は野生の動物のような行動はしないものであると信じている、或いはそう信じたいのだろう。一方、男のように非リベラルの立場の者は現実主義者である。現実主義者は人間性を信じるが、人間は生存のために人間性を失うこともあると考える。現実主義者は、野生の動物たちがそれぞれ生存のための力を有しているように、国家も自存のため強力な軍事力を持とうとするものであると考える。

 旧日本帝国は自存のためアメリカ・イギリスと戦争をした。その過程で日本軍は蒋介石の中華民国軍とも戦った。その上日本軍は蒋介石に対抗する毛沢東の策略にはまってしまい、結果的に毛沢東の戦略に利用された。

日本は生存のため、圧倒的に強力な軍事力を持っているアメリカとの間で同盟を結んでいる。日本とアメリカとの間の双務的、但し日本の専守防衛の範囲に限る同盟関係を構築するため、自民党と公明党の連立与党はリベラル政党からの非常に激しい反発を受けたが、平和・安全の法制を整備するための諸法律を成立させた。

 この法律は日本の防衛のために行動するアメリカ軍に対して、自衛隊が支援を行うことを認める法律である。民進党を分裂に導いた前原氏はこの法律は憲法違反であるとし、これを廃棄すべきであると主張している。リベラルな立場の人たちは、たとえ専守防衛のためとは言え、自衛隊がアメリカ軍と一緒になって日本本土の防衛及び紛争地域に居住する日本人の救出のため行動することは危険であるとして、この法律を廃棄すべきと主張している。

 リベラルの立場の人たちは次に示す三つの現実をどうしても理解することができない。①国家は野生の動物のような側面を有していること。②軍隊は外交上有効な手段の一つであること。③日本国憲法前文にある“平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼する”だけでは、日本の生存は保証されないということ。

 北朝鮮の脅威に対する感じ方は人それぞれにより違うものである。「人間の理性・高邁な道徳観」などを自分の日常の暮らしの中で高く位置づけていても、人は自分自身に危険が迫ってくれば、自分の身を守るため何かを為そうと行動するものである。

知識の障壁・感情の障壁・文化の障壁は将来起こりうる問題の事前認識を妨げる。北朝鮮の脅威に対する感じ方が十人十色であることはやむを得ない。北朝鮮の脅威が実際に表に現れれば、人々の考え方も変わるだろう。そうなればリベラル派の人たちの数も減るだろう。

 政策に関して情報や知識が広く一般の国民の間に共有されるようになれば、穏健・中道の政党の間の違いが一層明確になる。そうなれば、穏健・中道の政党である「希望の党」・「日本維新の会」や一部の無所属議員の会派の中から新たな政党を誕生させる動きがでてくるかもしれない。

 政権交代可能な野党の存在は必要である。その野党は穏健・中道思想の人たちだけの勢力でなければならない。上記の情報・知識に関しては、例えば①プライマリーバランスの黒字化を実現させるためには増税や緊縮財政を実行することだけが正しいやり方なのか?②増税や緊縮財政を実行しなくてもプライマリーバランスを適正にすることができる方法があるのではないのか? これらは与党と対立する政策のため採用することが出来るだろう。

新たに誕生して欲しい上記のような穏健・中道の大政党が財政運営に関して新しい政策を掲げ、国民的な議論を引き起こしてくれるならば、日本における政治は二大政党による円熟した時代に入ることができるに違いない。リベラルなの政治家たちが頼りにする「市民」は非リベラルの政治家たちが奉仕する「国民」ではない。北朝鮮による軍事的挑発は、日本の政治が生まれ変わることができる絶好の機会を提供してくれている。



2017年10月28日土曜日

20171028リベラル ―― 皇統の維持を阻む勢力 ――


 リベラルとは自由主義のことであるが、左翼という意味でも使われている。左翼は「天皇制」という言葉を使い、「譲位」の代わりに「退位」という言葉を使っている。左翼は女系の天皇を容認しようとしている。少なくとも女系天皇を容認する動きを阻止しようとはしていない。

 リベラルの反対は権威主義である。日本で天皇は統治者ではないが国民統合の象徴として、絶対の権威をもっている。その権威は、政治には一切かかわらず、内閣の助言と承認に基づき憲法に定められている国事を行うだけのものである。その国事には、①憲法の改正・法律・政令・条約の公布、②国会の召集、③衆議院の解散などのほか、⑦栄転の授与、⑨外国の大使・公使の接受、⑩儀式を行うこと、がある。

 一方、大日本帝国憲法の第一条には「大日本帝國ハ萬世一系の天皇之ヲ統治ス」と書かれている。ここには「萬世一系」と、男系の皇統が重要視されている。

 男は、リベラルか、そうでないかの判断基準を以下のように考えている。リベラルの程度の度合いを大雑把に二つに分ける。

 超リベラル政党 : 日本共産党及び社民党
   日本共産党は、“一人の個人が世襲で「国民統合の象徴」となるという現制度は、民主主義及び人間の平等の原則と両立しない”とし、将来的には天皇の存在を認めない立場である。
   社民党は、“天皇という地位や、その地位が世襲であるとされていることによってさまざまな人権が制約されている”とし、天皇の世襲を人権保護の観点から認めない立場である。
   超リベラル派は、日本とアメリカの軍事同盟を認めない。だからといって日本が独自に日本を防衛することができるほどの軍事力を持つべきである、とも言っていない。

 リベラル政党 : 民進党及び立憲民主党及び無所属
   民進党は超リベラル派からリベラル派まで、さらに保守派を含む玉石混交の政党である。民進党は現政権を倒すことだけを目的としている政党である。この度の選挙では衆議院の民進党は「希望の党」・「立憲民主党」・「無所属」の三派に分裂した。
   立憲民主党を立ち上げた枝野氏は、「天皇制」・「退位」という言葉を使い、譲位を可能とする特例法案に反対した。その立憲民主党には天皇に対する侮辱発言をした辻元氏が加わった。このことを国会で追及された彼女は、「かつて30代の頃、天皇制に疑問を持っていた」と釈明した。

   無所属の野田元総理は女性宮家創設を推進し、女性天皇の実現を目指す立場である。因みに日本の歴史の中で男系皇統の中継ぎとしての女性天皇は重祚(再即位)を含めて第3335374143444648109117の各代の天皇がいる。いずれも男系皇族の女性であり、既婚の場合も即位に先立ち皇后であられた方々である。

野田元総理は、内親王(皇族女子)の結婚のパートナーが皇族でない方の家でも「女性宮家」とすることを認める立場である。小林よしのり氏も女系天皇を認める立場である。その女系天皇の子孫には神武天皇のY染色体遺伝子は伝わらない。

もし皇族の中で神武天皇以来の男系皇統を継承する男子が途絶えてしまった場合、男系の皇統を維持する方法はある。それは戦後GHQの指令により皇籍を離脱した旧宮家を皇族に復帰して頂くことである。古代にそれに似た先例がある。

今から1570年ほど前に即位された第26代継体天皇は、第15代応神天皇から五世(5代)後の子孫で、当時、近江国高嶋郡三尾郷(今の滋賀県高島郡高島町)で、今の村長のような立場におられた。日本の歴史書『日本書紀』にその記述がある。

 問題が起きた場合、原点に立ち戻って考えればよい。上記のような方法を全く考えず、ただ男系皇統維持の危機を煽るのは間違っている。そこに左翼が付け狙う隙がある。

男系皇統維持の危機を煽る立場の人たちの中には、「天皇制」とか「退位」とかいった言葉を使い、将来的には天皇がいない国を目指す人たちが含まれている。

彼らは男系皇統維持の危機を煽る立場の人たちのグループの中に入り込んで、最終目標として天皇を否定し、「改革」という言葉の陰に隠れて「革命」を目指す人たちではないのか? 彼らは穏健・中道の大多数の「国民」ではなく、彼らが意識している「市民」が革命を起こすことを期待しているのだ。立憲民主党・参議院民進党の国会議員の中には、彼らと同じ願望を抱いている人たちが居るかもしれない。

果たして天皇の「権威」が自由主義の対極にあるものなのか? 日米軍事同盟が自由主義の対極にあるものなのか? 悠々の歴史を持つ国体の維持のため危険な因子は何なのか? 「国民」ではなく「市民」という言葉が使われ、「リベラル」という言葉があたかも「理性的・高邁」な精神を表す用語のように扱われている現状に警戒が必要である。


2017年10月24日火曜日

20171024国政選挙の結果


 第48回衆議院総選挙の結果、自由民主党は追加公認を含め284議席を確保した。公明党は29議席・「希望の党」は50議席・「日本維新の会」は11議席を確保した。憲法の改正に前向きな政党の合計議席数は374議席となり、議席総数465議席の80%を超えた。これで多くの憲法学者や歴代の内閣法制局長官が「違憲」としてきた自衛隊を「合憲」にする動きが加速するだろう。自衛隊は憲法に違反する組織であるとされながらも、日本の防衛・災害派遣・人命救助・国際平和への貢献などのため忍耐強く、黙々としてその活動を続けて来た。

 実質「軍隊」である自衛隊を「軍」と呼ぶことを好まない一部の政治家・ジャーナリスト・学者・言論者たちは、穏健中道の人々の組織の中に入り込み、メディアを利用して自分たちの主張に協調する人々が国民の半数ほどは存在していると喧伝してきた。しかし彼らの隠れ蓑であった政党が左右の勢力に分裂し、彼らの影響力が大いに弱まった。しかし、彼らは「政権交代ができる政治勢力が必要である」という美名のもとに早速蠢き始めている。

 この度の総選挙では、安倍首相の演説会場にSNSを通じて呼びかけられた反安倍総理の立場の人々が集まり、安倍首相の演説を妨害した。この動きに対抗して安倍首相を応援する立場の人々がSNSによる呼びかけに応じて安倍首相の演説会場に「日の丸」の国旗を持参して集まった。安倍首相の演説を妨害する行為は起きなくなった。

 SNSやブログなどによる情報発信が盛んに行われるようになりフェイクニュースが増えたが、一部の声高に正義を唱える人たちの影響力は小さくなった。自分の主義主張を声高に叫ばない大多数の穏健中道の人々の選択が政治に反映されるようになった。

将来この傾向を抑えるような動きが出ないとも限らない。民進党の前身であった旧民主党が政権を取っていたころ、人権擁護法案・人権侵害救済法案・人権救済機関設置法案・人権委員会設置法案を審議し、その法律を制定しようとする動きがあった。「人権」という美名のもとに、個人の発言やテレビドラマ・小説・アニメーション等の表現については制限するが報道機関の発言は制限しないというものであった。その上、人権委員の資格について国籍条項はなく、各自治体の人権委員会の主観的な判断だけにより、外国籍の人権委員であっても令状なしに人権侵害についての捜査ができるというものであった。

民主党から党名変更した民進党は分裂し、上記のような法律を作りたいと考えていた人たちは「希望の党」に加わることが出来なかった。上からの目線ではなく国民の目線で政治を行うと宣言した立憲民主党が野党第一党となり、リベラルな政治家を排除した「希望の党」は今度の国政選挙でその地位を得ることができなかった。

 「改革」「リセット」「しがらみからの脱却」「安倍首相のもとでの憲法改正に反対」など、定義・理由のあいまいな旗印を掲げて声高に叫んでいる人たちがいる。彼らは大多数の穏健中道の人々のグループの中に巧みに入り込み、グループの力を巧みに利用して自分たちの理念を実現させようと蠢く。男はそういう人たちを監視しなければならないと思っている。
 
弥生時代以降日本に渡来してきた人々が縄文人たちと共に暮らして行く間に、縄文人たちが「大自然と共にある」という世界観のもとに行ってきた神々を畏敬する祭祀は、彼らの子孫に継承されている。アイヌのカムイ(kamuy)は神道の神(kami)として、今を生きている日本人の間で畏敬され、祈願されている。この儀式のときアイヌの人々が儀式のとき用いているイナウ(inaw)に似ている御幣(ごへい)や大麻(又は‘大幣’)(おおぬさ)が用いられている。

縄文人・アイヌの人々の精神文化は狩猟・採集の文化であり、言うなれば水平軸上の文化である。これに対して弥生時代以降日本に渡来した人々が持ち込んだものは「支配・組織・秩序」など垂直軸上の精神文化である。黄河文明よりも1000年古い漁労・稲作の文化が栄えていた長江中流域から、縄文時代末期日本に渡って来た人々がいた。縄文人がその人たちと交流した後誕生したと考えられる天皇は、奈良盆地に朝廷を開いて以来、天地自然を畏敬する祭祀を続けてこられ今日に至っている。神武天皇以来男系の皇統の今上天皇も、宮中で祭祀を行っておられる。天皇は日本中のすべての家々の宗家のような存在である。人々は気付いていないが、これが日本民族のアイデンティティの中心にある。男はそのように確信している。

このアイデンティティを無くす原因となりかねないような思想・信条を持つ一部の人々が穏健・中道の人々のグループの中に入り込み、そのグループとして発言し、従来の秩序を変えてしまうような動きをする可能性がある。右派と目されている野田元総理大臣も女系天皇推進派である。この状況をほくそ笑んで喜んでいる輩もいるだろう。

年内に政党の再編成が行われるだろう。すでにその動きが見られる。あるメディアはその動きに加勢するだろう。男はそのような動きを監視し、SNSやブログ等を通じて男の見解を発信し続けるつもりである。