2017年7月26日水曜日

20170726日本人の気質・創造力と日本文化の源泉は縄文時代にある


意識は時間・空間を超越して延伸する。男の意識は縄文人たちの意識と交流している。男はNHKの『ドキュメンタリー「日本人はるかな旅」』をYou Tubeで視聴した。日本人の遠い先祖は縄文人である。この記事は筆者の「論」である。

紀元前300年前後、渡来系弥生 (Toraikei-Yayoi) 人と呼ばれる人たちが戦乱を逃れて日本にやって来た。縄文人たちは彼らが温帯ジャポニカ種技術を持ち込む前に、既に熱帯ジャポニカ種の稲を水田で育てていた。縄文人たちは彼らがつぼ型土器を持ち込む前に、芸術性の高い縄文紋様のつぼ型土器を作っていた。縄文人たちは粘土に鹿の毛を混ぜて作った厚さの薄い土鍋を作って使っていた。日本人のDNAは東アジアの人たちのDNAとかけ離れていることが最近証明された。日本人の気質と創造力及び日本の文化は縄文時代に由来するものであると考えられる。

縄文人は16000年前から3000年前までの13000年間にわたり、北海道から沖縄までの各地で実に平和に暮らしていた。近年日本各地で非常に多数の縄文遺跡が発掘されている。東京の新宿三丁目では12000年前の土器が発見された。その土器は粘土の中にシカの毛が含まれている物であった。それは土器の厚さを薄くするように工夫された物であった。彼らはその土器で採集したドングリを蒸していた。

青森の三内丸山遺跡は5500年前のものである。其処では約780軒の小さな住居跡、10棟以上の大きな住居跡、高床式倉庫跡及び建物跡などが発掘された。その大型の建物は室内が広く作られていて祭祀のため使われていたものであったと考えられている。

其処では建物を建てるため樹齢200年の直径2メートルもあった栗の巨木が使われていた。人々は其処で1500年間定住していた彼らは栽培した栗・クルミなどの木の実やエゴマ・ヒョウタン・牛蒡・豆などの他、魚やシカ・タヌキ・ネズミなどを調理して食べていた。彼らはヒスイの耳飾りをしていた。彼らは他の地域の人々と交流・交易をしていた。4000年前、彼らは其処から去っている。縄文人たちは平地や海岸近くで暮らすようになった。

黒潮に乗って日本列島に辿りついた人々は丸木舟を作る道具として使われた丸ノミ石斧を製作していた。この種類の石斧は沖縄の具志頭村の遺跡でも見つかっている。其処は港川人と呼ばれる人骨9体分が見つかった場所である。港川人の古里はかつてスンダランドと呼ばれる大陸であった。

北方のシベリアからやって来た人々は南方のフィリッピン方面から黒潮に乗ってやって来た人々と日本列島の各地で出会った。両者は交流し、混血した。黒潮の民は丸ノミ石斧製作と造船・航海の技術を持っていた。黒潮の民の丸ノミ石斧製造技術は北方の民の磨製石斧製造技術に応用された。丸ノミ石斧製造技術を応用した磨製石斧製造技術は日本列島中に拡散した。

4200年前、長江(Chàng Jiāng)中流域で稲作と漁労を営んでいた人々は、北部で畑作と牧畜を営んでいた人々に圧迫された。長江(Chàng Jiāng)中流域で稲作と漁労を営んでいた人々は雲南省の山岳地帯に逃れ、一部の人々はボートピープルとなって日本にやって来た。長江下流域江南(Jiāngnán)地方の河姆渡(Hémŭdù)の漁民は漁に出た時、潮風に乗せられて九州辺りまで流されることがあるそうである。5000年前の河姆渡(Hémŭdù)遺跡から出て来た大量の炭化米は熱帯ジャポニカ種であった。(参考:『古代日本のルーツ 長江文明の謎』安田喜憲著、青春出版社)

岡山県の朝寝鼻貝塚では6000年前の土中から熱帯ジャポニカ種の稲を示すプラントオパールが見つかっている。このプラントオパールは西日本の9か所の遺跡で見つかっている。佐賀県の菜畑遺跡では紀元前930年頃の熱帯ジャポニカ種の水田跡が見つかっている。

紀元前300年前後、多くの人々が戦乱を逃れて中国から日本にやって来た。彼らは渡来系弥生(Toraikei-Yayoi)人と呼ばれる。彼らは水田で温帯ジャポニカ種の稲を作る技術を持っていた。当初、縄文人と彼らとの間で衝突が起きたが両者はすぐ共存し、交流し、人種間の混血が進んでいった。その混血の度合は地域差があった。北海道と沖縄は他の地域より少なかった。アイヌの人々と沖縄の人々は他の地域の人々より縄文人に近い。先祖代々日本人である人は誰でも皆、縄文人の遺伝子を持っている。勿論、渡来系弥生(Toraikei-Yayoi)人の遺伝子も同様である。

朝鮮南端の3000年前の集落の遺跡からは温帯ジャポニカ種の炭化米とともに多数の縄文土器など縄文時代の生活道具が出土している。当時、縄文人たちは朝鮮半島南部に進出していたのである。朝鮮半島南部には倭人(Wajin)系の人の豪族の古墳がある。しかし縄文人たちは日本列島内で渡来系弥生(Toraikei-Yayoi)人と出会うまで、水田稲作を拒否し続けていた。その理由は、日本列島では採集・小動物の捕獲・漁労により十分な食料が確保されていたからである。

縄文人たちは紀元前300年ごろ以降、渡来系弥生(Toraikei-Yayoi)人たちから水田稲作の技術を学び取った西暦0年には温帯ジャポニカの稲が北緯41度にある青森県の水田で栽培されていた。青森県の垂柳遺跡では当時の水田跡が発掘された。其処には大人男女の足跡に混じって子供の足跡もあった。その水田では温帯ジャポニカ熱帯ジャポニカの稲が混植されていた。地力を回復させる休耕地もあった。縄文人たちはこの混植が稲の成長を早めることを知っていたのである。

後漢の滅亡時と百済の滅亡時にも多くの人々が朝鮮半島から日本にやって来た。戦後、非常に多くの朝鮮半島の人たちが日本で永住権を得て住んでいる。近年東南アジア系やヨーロッパ系やアフリカ系の人たちとの混血も増えた。将来、日本人の容貌や形質は変わってゆくことだろう。

「大和言葉・言霊(KOTODAMA)・大和魂」は13000年間続いた縄文時代にその基礎が形作られたものであると考えられる。それゆえ男系の皇統・古来の文化・伝統が維持され続けるかぎり、日本人はその容貌や形質が変わってもこの日本列島で繁栄しながら安全に平和に暮らし続けることができるに違いない。最も重要なことは男系の皇統・古来の文化・伝統の維持である。