2017年10月8日日曜日

20171008ある医師・僧侶の最期


 今、日曜日の午後である。女房が「お父さん、お父さんが好きそうなことがテレビに出るよ」という。それは夫婦そろって医師であり僧侶であるお方の、夫が末期がんに罹り、その最期までの450日間をNHKが映像で記録した番組であった。新聞に出ているテレビの番組表には『ありのままの最期』という題で出ていた。

 男は昨夜、『仏教の教え』という題でこのブログに記事を投稿していた。その記事に関連しているようなことが今日のテレビで放映されている。そのようなことはよく起きている。そのような現象は不思議と言えば不思議である。しかしそれは「たまたま起きた偶然の現象である」、と言えば不思議でも何でもない。

 男はその番組を視聴して、「人は自分の思い通りには死ぬ事は出来ない」と思った。しかし、昔、侍の切腹はある意味自分の思い通りの死に方であったように思われる。新渡戸稲造著『武士道』(奈良本辰也訳・知的生き方文庫)の第12章に「切腹」という題でその様子の一例が示されている。

 「人は思い通りの死に方が出来ない」という理由の一つに、正に人生の終わりに立ち向かおうとする人と、その人に親密な所縁のある人との間に何か心情的な関わりがあることが挙げられる、と男は思う。

 女房の叔父は死ぬ数日前、農協の銀行に連れて行ってもらって自分の葬式の費用とするお金を引き出し、葬式での焼香の順番まで決めていた。32歳の時乳がんで死んだ男の生母は死ぬ直前、当時9歳であった男に「起こしておくれ、東に向けておくれ、仏壇から線香をとってきておくれ、お父さんを呼んできておくれ」と言った。この例では「思い通りの死に方」が出来ているように見える。それでも当の本人たちにしてみれば、「自分の思い通りにはならなかった」部分も多々あったに違いない。

 煩悩多き身でありながらも阿弥陀仏を信仰し、全てを阿弥陀仏のお力にすがって生きることは、最も理想的な生き方ではないだろうか?真宗の経典には「不断煩悩得涅槃(HUDAN  BONNO TOKU NEHAN)(煩悩を断たずに涅槃を得る)」「往還廻向由他力(OGEN EKO YU TARIKI)(往くも還るも廻向は他力に由る)」などの文言がある。

現世で死後自分の魂が「極楽」に往くことができるような「廻向」も、また極楽に一時居る自分の魂が来世に新たな生を受けて還ってくることができるような廻向も、阿弥陀如来のお力に由るものである。「廻向」とは、自分の修めた功徳を他に巡らして、自他ともに仏果を成就しようと期することである(『広辞苑』より)。

 その現世においては煩悩を断つことなく涅槃を得ることが出来る。その方法はただ一つ、阿弥陀如来を信仰し、功徳を積むように修業しつつ正しい道を歩むことである。

人は誰でも自分の煩悩を断つことは極めて困難であり、殆ど不可能である。しかし、自分の最期のときは一切の未練を断ち、「もう少し生きて居よう」などと誰の為にも一切思わぬほどに、冷厳であらねばならぬ、と男は思っている。