2017年10月7日土曜日

20171007仏教の教え


 以下はネットに出ていた記事の一部である。(“”で引用。)

 “・死有(しう)  : 前世における死の瞬間
・中有(ちゅうう): 死の瞬間から次に生を受けるまでの中間
・生有(しょうう): 次の世に生を受けた刹那の瞬間
・本有(ほんう) : 生を受けてから死に至るまでの間

以上の四つのサイクルに分けておりまして、死の瞬間である死有(しう)の状態を過ぎますと中有と呼ばれる「生きているでも無く、死んでいるでも無い」意識だけの状態を迎えることになると説かれています。・・(中略)・・身体の動きが止まっても潜在的な余力によって心の働きが暫く続く状態を指し、いわゆる命の残り火のような状態で心の相続によって辛うじて意識が残留しており、モノを見たり聞いたりする事が出来ると言われ、次の行き先を必死で探す状態であるとも言われます。”

古代インドにおける七進法により、死者が七日ごと次の段階に進んでゆく考え方がある。そして死者は七回目の七日、つまり四十九日目に次の世に生を受ける。その有り様は死者の生前の行為によって様々である。それは天上界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界の何れかの世界における「生」である。

死者が受けた新たな人生がより良い世界になるように、その死者に所縁がある者は追善供養を行う。それが百箇日・一周回忌・三回忌などの法要である。例えば生前の行いの如何によって、もし修羅界に「生」を受けた人がいるとして、その人を人間界に導くために追善供養の法要を行う。人間界に生まれた人についても、その人の人生がよいものであるように追善供養を行う。その追善供養を行う人自身もその行為によって、人間界でより徳が高いレベルに上ることができる。

釈尊入滅後、釈尊の弟子たちによって釈尊の教えをまとめるための会議(結集)が何度か行われた。その結果まとまったものが経蔵(sutta-pițaka、スッタ・ピタカ)などである。その経蔵は阿含(āgama、アーガマ)または部(nikāya、ニカーヤ)という名で呼ばれた。(Wikipediaより引用。)

男が所持している『新訳仏教聖典』(大法輪閣版)・『原始仏典』(中村 編、筑摩書房)には、輪廻転生・死後の運命・供養のことなどが書かれている。男は折に触れこれ等の本を読み、仏教の知識を深めようと思っている。

量子科学においては、量子の不思議な振る舞いが次第に明らかになりつつある。男も意識を凝らし意識における量子の不思議な振る舞いと共鳴したいと思っている。そう思うと、釈尊の教えを素直に受け容れることが出来るような気分になる。

『仏説阿弥陀経』には、極楽の世界が書かれている。この極楽は阿弥陀仏に帰依した者が住むことが出来る世界である。極楽とキリスト教の天国との違いは何か。「極楽」は死者の魂が命そのものになるための期間を過ごす場所である。一方「天国」は魂が永遠に住む場所である。

男は、その魂は「意識」そのものである、と考えている。意識も量子で生まれる。人が死ねばその人の意識は量子として宇宙に存在するようになる、と男は考えている。

人が見て認識する対象はその人だけの物であり、他の人がその同じ対象を見て認識することとは同じではない。ただ、人は想像力でその対象を同じように認識している、と考えられているにすぎない。それは量子エンタングルメントの働きによるものかもしれない。

仏教の教えは仏教の教えを学ぼうと望む人だけにしか伝わらず、仏教を信仰する人の歓びは仏教を信仰する人しか味わえないものなのだろう、と男は思っている。