見えるはずがないものが見えたり(幻視)、聞こえるはずがないものが聞こえたり(幻聴)、‘金縛り’状態になっていたりするなどの奇妙な現象を正常な状態にある人はどう捉えるだろうか?ある人はそれは心霊現象であると大真面目に言うことだろう。医科学者はそれは1時間以上の仮眠を取ったり23時以降就寝したり、いやなことや心配事があったり、不規則な生活をしたりしたとき起きるという。幻視・幻聴な超常現象は麻酔薬などの化学物質を服用し続けたときでも起きるだろう。ある医学者は
‘金縛り’現象は‘睡眠麻痺’と呼ばれるものであって、‘レム睡眠’と‘ノンレム睡眠’の順番が崩れ‘ノンレム睡眠’に入ろうとするときに突然‘レム睡眠’状態が起きるときこの‘睡眠麻痺’が起きると説明している。
‘ノンレム睡眠時’では脳も体も休んだ状態にある。これは約90分間続く。一方‘レム睡眠’時には体は休んだ状態にあるが脳は比較的活動状態にある。この時間は短い。このとき人はストーリー性のある夢を見るという。健康な人は夜就寝後この‘ノンレム睡眠時’とレム睡眠’を5回繰り返しながら明け方に目が覚める。
人は太陽が西に沈んで夜の帳が降りるのを見、22時頃就寝し、朝太陽が東に昇り辺りが明るくなりかけたころ鶏の鳴き声を聞いて起床し、一日の活動を始めるというような自然な暮らし方ができるならば幸せと感じることだろう。古代ではそれができていた。現代では人は不規則な暮らし方をせざるを得ない。古代人であろうと現代人であろうとその人の「意識」はその人の脳とは無関係ではない。医科学者たちは「意識」というものは私たちの脳の中で作られていると考えている。しかし私は「意識」というものは脳の働きに関わりを持ちながら実は脳の中と脳の外の全体で作られるものであると考えている。私は「意識」というものはその人の全体を包んでいるが私たちには見えない‘あるもの’であると考える。この‘あるもの’を仮に文字Xとすると、私はXは私たちの脳の中に錨を降ろしていて私の身体に纏わりついていると考えている。
しかし「仏教」では‘X’が私たちの脳との関わりの中で私たちの身体の外に「存在する」とか「存在しない」とか言ってあれこれ議論することを「無記」としてこれを禁じている。一方で仏教では「①人格の主体として業(ごう)を保持している霊魂は過去世・現世・来世の三世を通じて存在する」「②この霊魂は不生不滅ではなく輪廻の主体として業(ごう)や経験に従って常に変化しつつ連続する」と説いている。私はこの霊魂を「意識」に置き換えて哲学的思索を続けている。私の「意識」は私が死んだら消えて無くなってしまうものだろうか?仏教では霊魂(=意識)は三世にわたって輪廻転生すると説いている。私は仏教が禁じる「無記」の領域に入っていろいろ考えてみたいと思う。