2013年8月9日金曜日

「意識」と「仏教」(1)――「意識」は「霊魂」である――

 仏教では人間の思想は、その人一代で完成できるものではないということを教えている。仏教は「悉有仏性(しつうぶっしょう)」といって、「万物は単なる存在ではなく山川草木もの皆すべて仏のいのちと慈悲の相(すがた)を備えていて、万物は悉(ことごと)く仏性(ぶっしょう)を有する」と説く。「仏性」とは仏のこころ・仏のいのちのことである。この「悉有仏性」という四文字の言葉が生まれるまでには今から約2500年前インドにシャークヤ族の聖者(ムニ)・悟った人(ブッダ)が現れる以前からの哲学の積み重ねがあった。そしてブッダ滅後「ブッダはこう語られた」ということが書かれている膨大な数の経典を中国の仏教学者や高僧たちが一堂に集まって体系づけ・価値づけを行った。その結果仏教の各宗派が生まれたのである。

 仏教では物質と精神とを分けて物事をとらえるようなことはしていない。仏教では生者は必滅・会者は定離・諸行は無常であるから、仏法僧を敬って悉有仏性・縁起の真理が分かるように修行し努力するようにと教えている。ここで「法」とは「聖」・「真」・「善」の規範的理想を意味するものである。また「聖」とは「己を捨てた無我の実践を最高度に発揮すること」を意味するものである。(これは「武士道精神」の根幹をなしていると考えられる。)

仏教では「善因善果・悪因悪果」と教える。しかし「善因」のための「善行」は「聖」なるものでなければならない。従って現世ご利益を願って勝手に自分で「善い」と考える行いは「聖」なる行いではないのである。「聖」なる気持ちで行う慈善行為や「法」を説くことや恐怖・不安を取り除き安堵の心を起こさせる行為や自分の身を投げ出して他の人の生命を救う行為などは「布施」と言われるものである。(特攻隊員たちは日本の国体を守るため、そして自分が亡きあと愛する人たちの幸せを願いつつ自分の身を投げ出して「布施」を行ったのである。)

仏教では「輪廻転生」の連鎖を説く。凡夫にとってそれは「苦」であると説く。この「苦」から脱するには誤った行為や習慣力・素質などが無くならなければならないと説く。誤った行為や習慣は「煩悩」に基づくものである。仏教では人が前世において「煩悩」のため悪い行いや習慣・素質などがあったため今生においてその報いを受け、其処からは抜け出せないということを否定している。仏教ではその人の前世がどうであろうとその人が一生懸命精進・努力し精一杯の「布施」を行うならばその人は輪廻転生の連鎖から抜け出すことができると教えている。(さらに葬式・法要などを主導する僧侶や遺された家族が逝った人の冥福を願って追善供養を行うことにより、死者の霊魂は高みに上がってゆくことができると考えられるのである。)

しかし仏教ではある人が前世において容貌が優れていてもその行いが悪かったならば今生において容貌が醜い人、あるいは前世での行い次第では容貌が優れていても貧乏な人として生まれる。しかしたとえ醜い人であっても今生において仏教で教える真理に従い精進・努力し「布施」を行う人は、今生において幸せを得、来世においては容貌が優れた豊かな人として生まれると説いている。仏教では「輪廻転生」の連鎖から脱するためには仏教で教える真理に従い精進・努力し「布施」を行うことが重要であると説いているのである。(私は、①「供養」というものは「布施」の一つである。②僧侶は死者の「霊魂」に対して「法」を説き、葬儀の参列者にも「法」を説いているのであると思っている。)

仏教では「輪廻」の主体として「霊魂」を認めている。「霊魂」は「無始・無終」でありそれが宿る肉体を離れても永遠に存在し続けると説いている。また殺人・放火・窃盗などの罪を犯した人はその罪の深さに応じて「地獄」「餓鬼」又は「畜生」に生まれて痛苦を受け、あるいは「修羅」に苦しむ。一方「善行」した人はその行いの程度に応じて「天上」か「人間」に生まれることができると説いている。

「意識」は人間にのみ存在するものであるがその「意識」は「霊魂」と言い換えることができる。デカルトが「cogito ergo sum 私は考える、ゆえに私はある」と言って以降現代の自然観においては「物質」と「精神」を分けて考え、「意識」を科学的に解明しようと盛んに研究がなされている。しかしある特定の意識的知覚が脳のどの部位にあるニューロンによって生成されるかという課題については未だ解明されていないのである。

神経科学及び脳神経医学の権威であるインド人のラマチャンドラン博士は“インドで育つと「自己」や「意識」というものに非常に興味を持つようになる”と言い、“「意識」が脳からどう生まれるのか」という問題に科学的な解があるかどうかはわからない。「時間と空間が実は同じものの一部である」と考えたアインシュタインのように、意識を解明するためにはいずれかの時点で世界観を完全に転換する必要がある”と言っている。


最近の研究成果で「記憶」とうものは「脳」の外にあることが分かってきつつあるように、従来の自然科学的観方で「意識」というものを解明することには無理があると私は思っている。私は「意識」というものは人間の寿命が尽きたとき別の新たな胎児又は新生児に宿るものであるという立場で「意識」と「仏教」の関係を研究し、思索を続けてゆきたいと思っている。(続く)