2016年4月2日土曜日

20160402「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(15)―― 「妬み」と「怨み」・「恨み」 ――


 世の中には「妬み」や「怨み」・「恨み」の感情を全く抱いていない人や、一度もそのような気持ちを抱いたことがないという人が居るであろう。そのような人は生まれつき純真な性格を持っていると思われる。一方、他人が持っている物や他人がしている事を見て、それを「羨ましい!」と言う人は、生まれつき「妬み」や「怨み」・「恨み」の感情を持ちやすい人ではないだろうか?

 これまで「妬み」や「怨み」・「恨み」の感情を抱いたことが全くない人は、多分、自分に接する人は誰でも自分と同じであろうと思うだろうから、自分に接する人とっては自慢話のように聞こえるようなことをごく自然に話すことだろう。ところがそのような話を聞いている人の中には、自分が劣等に思えて不愉快になる人もいるかもしれない。その不愉快な気持ちが「妬み」の気持ちになり、何かのきっかけで「怨み」・「恨み」の気持ちに発展してしまうこともあるだろう。「恨み」はついに「憎しみ」に発展するだろう。

 人は自分を他の人といろいろなことを比べ、自分が他の人よりも優位に立とうとする。人は他の人を差別したいのである。人は自分が他の人よりも優位にあることを、いろいろな面で誇示したがるものである。たとえば、人は自分が高級な腕時計を持っているとか、外国の有名な観光地を旅したとか、テレビに出て何か話したことなどを他人に話したがる。

 世の中の大多数の人びとはお互い自分と同じような者であると思っていたり、そのように思いたがっていたりしているであろう。従い、上述のような話については「お互いさま」という気持ちがある。その一方で、そのような話をした人を不愉快に思う人もいるであろう。その不愉快の気持ちの根底には、「自分はそのような話はしない」という、他者への差別の気持ちがある。これも自分が他の人と比べて優位に立とうとする気持ちに他ならない。

 広辞苑によれば、「煩悩」は「衆生の心身を煩わし悩ませる一切の妄念」とある。『仏教要語の基礎知識』『仏教の基礎知識』(いずれも水野弘元著・春秋社)によれば、「煩悩」にはいろいろあるが、「無明」が「有情の心身を悩乱し、仏教の理想を障碍するもの」の一つであると書かれている。また「無明」は「無知であって、四諦や縁起の道理を知らないこと」と書かれている。仏教の教えるところによれば、無知が煩悩の元なのである。

 煩悩には罪を犯し、不幸を招くような煩悩と、不幸の結果を招くような悪いことをしないが仏道への精進の妨げとなるような煩悩がある。善男善女は後者の煩悩に苦しむ人である。自分が無知であることを知れば、人生の真理を知るために学ぶ必要がある。親から子へ、子から孫へ、先輩から後輩へ、年長者から若い人へ、読書により時空を超えた先師から今を生きる自分へ、教えられていることを学ぶことが重要である。

 上述の本には、「無知」の人でも法身(=真理を人格化した真理仏)・報身(=完全円満な理想的な仏陀である阿弥陀仏・薬師如来・盧遮那仏)・応身(=釈迦仏・六仏・弥勒仏)に帰依し、仏道に励めば心の平安を得ることができると書かれている。親鸞聖人が七言絶句の長詩で心の平安を得る道を説いておられる『正信偈』には、阿弥陀仏を信仰するならば煩悩の身のまま神通を現わし、現世においても来世においても浄土に生きることができるのであるということが、「遊煩悩林現神通(煩悩の林に遊びて神通を現ずる)」という七つの言葉で示されている。しかし、何が「神通」であるのかは、実体験でしか理解できないだろう。

 ところで、善人も悪人もいる人の集合体である国家の中には、悪を表面に出す国家がある。国家も煩悩を持っている。動物的にただ生き残ることだけの目的のために、国際的な規範を無視して行動する国家は、必ず不幸な結果を招くことであろう。日本は、聖徳太子によってその基礎作りが成され聖武天皇によって日本国民の中に広く定着した仏教を大切にしつつ、天皇を守り続けるならば、必ず世界で一番幸せな国家として進化し続けるに違いない。