2016年4月18日月曜日

20160418「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(20)―― 原子力発電所反対運動に思う ――


 人は煩悩・無知のゆえに、権力に対して反発心を持つ。私もその例外ではない。ただ、私は、マスコミやいわゆる「有識者」を利用して、権力に対する反発心を隠しながら、表向きもっともな理由を挙げて、権力側が推進する事業に反対するような連中には与しない。

 熊本地方や別府地方で起きた大地震の原因が活断層のずれにあることを心配して、「媛県西宇和郡伊方町にある四国電力の原子力発電所は危険である」と主張する人たちがいる。

 私も日本の国土はその生い立ちから見ても活断層が国土のいたるところに存在しているので、日本は原子力発電所を持たない方が安心だとは思う。原子力発電所に反対する人々の殆どはそのような漠然とした不安感に駆り立てられて反対運動をしているのであろう。

 自由民主党は、将来原子力発電所を無くする方向で、再生可能エネルギーの開発と展開に力を入れる意向である。自由民主党は「自助」「公助」「共助」のそれぞれに最も適切なウエイトを置いて、最も現実的な選択により資源を配分しようと考えている。

 一方の野党は「公助」に最もウエイトをおいて、「弱者」に有利になるように資源配分をしようと考えている。「自助」「共助」は二の次である。共産党は彼らの理想の実現のためには、機会あれば暴力的な革命も辞さないことを視野に入れていると思われる。もし共産党が政権を取ったならば、自衛隊は共産党の理想を達成する目的のため改造されるだろう。更に「天皇は廃止」されるだろう。そこには「自助」も「公助」も「共助」もない。

 理想主義者は「現実」よりも「理想」に目を向ける。現実主義者は「理想」よりも「現実」に目を向ける。両方とも正しくない。最も正しいことは「中庸」にある。理想主義者も現実主義者も、それぞれ自分の欲求を満たすことにエネルギーを費やす。両者は「自己実現」のため自分のエネルギーを注ぐので快感があるのであろう。然り、「煩悩を満たすことは快感を伴う」ものである。

 反権力的に声高に「原子力発電所に反対」と叫ぶ前に、自分たちが「不便な暮らしをしても良いから電力の消費量を減らす」、と公に「宣言」し、「誓約」するならば、彼らの主張は理解されるであろう。「良いこと取り」をしながら反対を叫ぶのは間違っていないか?

 私も含め、皆、煩悩・無知の輩であるから、お互いそれぞれ「最も正しいこと」は理解できない。それが人間である。マスメディアは一方に偏した報道をするのではなく、両者が互いに理解し合えるような「議論の場」を提供することにエネルギーを注ぐべきである。