2016年4月28日木曜日

20160428「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(22)―― 「真理」を信じる者は救われる ――


 意識は時空を超えて伝搬する。ただし、その受け手が居なければ伝搬しない。意識が時空を超えて伝搬するかしないかは、その受け手の意識次第である。

 人間(生物学的にはヒト)の体は凡そ260種類・60兆個の細胞で出来ていると言われている。皮膚細胞・骨細胞・神経細胞、生殖細胞など細胞にはその機能ごとにいろいろあるが、細胞の基本構造は皆同じである。個々の細胞はシグナル伝達を行っている。つまり細胞同士はコミュニケーションを行っている。

 組織化された人間の集団においては、個々の人間はカッコつきの‘細胞’のようなものである。組織化された集団の中では、個々の人間は、つまり‘細胞’は互いにコミュニケーションを行っている。ヒトの体のなかでも細胞は互いにシグナル伝達を行っている。

 ヒトとヒトの間でコミュニケーションを行うとき、ヒトの意識が伝搬する。ヒトの場合、あるヒトが書き遺したものでも、それを書いたヒトの意識は後の世に生きるヒトに伝わる。ただしその伝搬は、その受け手の意識次第である。ヒトの意識は時空を超え、時差や受け手の数に無関係に伝わる。先祖が書きのこした内容は、今を生きている親にも子供にも伝わる。ただし、あくまでその親や子供がその先祖を意識しない限り、先祖の意識は伝わらない。

 遺伝学的には子供はその両親から各々半数の遺伝子を受け継ぐ。エピジェネティクス的には親の生き方が遺伝情報の修飾という形でその子供に受け継がれる。つまり、親の形質や性格や知能や判断能力・運動能力などのほか、親の生き方・精神状態などが子供の人生に影響を及ぼす。「駿馬の子は駿馬」「氏より育ち」ということは実際に起きている。

 「この世」は自分の親から上記諸々のものを受け継いで生きる「現世」であるとともに、自分が生まれる以前に亡くなった自分の親族の「あの世」でもある。ただ、自分自身は意識しない限り又は意識できない限り、自分が生まれる以前に亡くなった自分の親族の「あの世」を自分が今生きている、ということは分らない。自分が死んだ場合、自分は誰かに生まれかわるかどうかは、それを信じるか信じないか次第である。誰もそのことを証明することはできない。将来、科学が「意識の波」を証明することを期待するが・・・。

 浄土宗・浄土真宗では、広く遍く世界に行き渡っている「真理」を、人間の姿で表現した「阿弥陀仏・阿弥陀如来」を信じ、清く正しく生きて行くならば、たとえ煩悩の身であっても「この世」で浄土に生き、「あの世」でも浄土に生きることができると説いている。要は信仰次第である。信じる者は救われるのである。
 
 一方で、「この世」で人を殺すとか、物を盗むとか、人を騙すとか、人の身を害するとか、人をいじめるなどの悪行を為した者は、「この世」で修羅や地獄の世界に堕ち、「あの世」で人間に生まれず餓鬼・畜生に生まれかわると説かれている。それを信じない者・信じることが出来ない者は不幸である。


 科学的社会主義と言い、「資本家が労働者を搾取している」と説明して人々を扇動している連中は、現実の社会で才覚ある一介の労働者が会社の経営者になり、大株主になっている人も居る事実を敢えて見ようとはしていない。実際にこの日本においては、極端な貧富の差はなく、富の再配分について常に議論され、決定され実行されている。彼らはその状況に目を背け、自分たちが描く理想の科学的社会の実現に向けて、確固・不動の意志をもって行動している。彼らは「あの世」でももがき、決して浄土に生きることは出来ないであろう。