2017年1月17日火曜日

20170117『仏説阿弥陀経』について(7)


2年ぶりに合気道の会の新年会に出た。いつもの仲間の一人と仏教について語り合った。私は儀式仏教・現世ご利益祈願の祈祷仏教を批判した。彼は「人々がそれを求めているからこそ日本の仏教は廃れなかった」と私の批判に反論した。私は確かにそういう部分はあると思う。初詣・七五三の行事・家内安全祈願・葬式・法事・神社の祭りなどこれまで日本人が古来続けて来た伝統的な行事は今後も続けられることだろう。従い仏教に対する親近感は失われず、日本の仏教は決して廃れないだろう。

しかし田舎であっても昔のようにお寺のお堂に集い、お坊さん(僧侶)のお話(講話)を聞く集いは無くなっている。特に田舎では昔は娯楽が少なかったし、農閑期があったので、僧侶の講話を聞くためお寺に行くことは人々の楽しみの一つであった。その機会に僧侶がお釈迦様(釈尊(Śākyamuni)の教えを広めることができた。しかし今はそう言う事は行われない。仏教が本来の目的から離れ、「儀式仏教・現世ご利益祈願の祈祷仏教になってしまっている」と言うのは極端であるが、昔と違う状況にあることは確かである。

特に都会では、葬儀は葬儀専用の施設内で、葬儀専門の業者のプログラムに従い機械的に進行する。そのプログラムには僧侶が仏教の講話を行う時間は組み込まれていない。葬儀の業者は短時間で利益を上げることに注力している。昔はそのような施設も無かったし葬儀業者も居なかった。特に田舎では葬儀は死んだ人が出た家で行われ、近所の人たちがお互いに助け合って葬儀を行っていた。法事でも同様であり、人々が僧侶の講話を聞く機会は度々あった。私が10歳のとき、私の母の葬儀はそういう状況で行われた。

人々が僧侶の講話を聞く機会は極端に少なくなったが、仏教に関する本は沢山出版されている。時々テレビや新聞等で高僧の法話が紹介されている。昔と状況が異なっていても、仏教は人々の間に根付いている。浄土真宗の僧侶になるため修業中の人は親鸞聖人が著した書物を読んでいろいろ善い知識を得ている筈である。しかし一般の人でもインターネットを通じて親鸞聖人の著作を読むことができる。しかしその人数は極少ないであろう。

インターネット上では真宗東本願寺が積極的に講話を行っているようである。東本願寺では親鸞聖人が教えておられる「往還回向」について『往相の回向と還相の回向』と題する講話を行っている。それによれば(以下“”で引用);

“私たち凡夫が阿弥陀仏の浄土に往生することを「往相」といいます。そして浄土に往生した人が、迷いのこの世間に対してはたらきかけることを「還相」というのです。すなわち、「往相」は、穢土えどから浄土に往くすがたです。これに対して「還相」は、浄土から穢土に還るすがたなのです。人が穢土から離れて浄土に往生するということは、「自利」(自ら利すること)の成就です。しかし「自利」の成就を果たすだけでは仏教とはいえないのです。「利他」(他を利すること)がなければならないからです。他の人びとが浄土に往生できるよう、穢土の人びとへのはたらきかけがなければならないのです。つまり、自分が受け取る利益と、他の人が受け取る利益とが一つになること、それが仏教の根本の精神なのです”とある。これは非常にわかり易い。

親鸞聖人の作『正信偈』には「天親菩薩論註解(TENJIN BOSATSU RON CHU GE)、報土因果顕誓願(HO DO INGA KEN SEI GAN)、往還回向由他力(O GEN EKO YU TARIKI)、正定之因唯信心(SHO JO SHI IN YUI SHINJIN)」という七言絶句がある。この意味は「天親(てんじん)の論(ろん)を釈(しゃく)しては 浄土(じょうど)にうまるる因(いん)も果(か)も 往(ゆ)くも還(かえ)るも他力(たりき)ぞと ただ信心(しんじん)をすすめたり」(『真宗 在家勤行集』より)である。

「他力」とは「阿弥陀仏・阿弥陀如来の本願」であり、「阿弥陀仏・阿弥陀如来の本願」とは「阿弥陀仏・阿弥陀如来の本当の願い」のことである。親鸞聖人はこの「他力」によって「往還の回向」が為されると説いておられる。

親鸞聖人の著作『浄土文類聚鈔』の12に「煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相の心行を獲ればすなはち大乗正定の聚に住す。(現代語訳:煩悩にまみれ、 迷いの罪に汚れたものが、 仏より回向された信と行を得ると、 ただちに大乗の正定聚の位に定まるのである。 )」とある。「正定聚」とは「阿弥陀仏の救いを信じて歓喜し、疑わない心によって現身に得られる如来に等しい位」のことである。

また『浄土文類聚鈔』の14に「還相回向といふは、すなはち利他教化地の益なり。(現代語訳:還相の回向というのは、 思いのままに人々を教え導くという真実の証にそなわるはたらきを、 他力によって恵まれることである。)」とある。

本願寺派・大谷派など真宗の古い教団が発想を大転換して、インターネットを積極的に利用して親鸞聖人の教えを広めるように活動しないとわが国における精神文化の芯が細くなってしまうことだろう。そればかりではなく精神的に不安定な人々の現世利益・来世利益を願う心理に付け込むカルト的な教団がはびこり日本の社会に緊張を走らせるようなことが起きる可能性がある。


私は親鸞聖人の教えを学びつつ、浄土真宗‘自分’派として特に本願寺派・大谷派の活動状況を調べて行こうと思う。