2017年1月14日土曜日

20170114『仏説阿弥陀経』について(6)


今日の朝日新聞3面に「僧の質を高めよ 世間知る研修」と題する記事が出ている。見出しだけを見ると研修の目的は「セクハラ・不祥事防止」だけが主眼かと思わされる。見出しの下のコラムに弓山達也東工大教授(宗教学)の話が出ている。彼は「無縁社会や孤独死が顕著になり、東日本大震災では慰霊や追悼の重要性が再認識された」として「これまでは葬儀や戒名などの宗教的儀式をやっていればよかったが、なぜ必要か問われる時代になった。過疎化や高齢化で信者は減り、宗教者に求められるのは伝統を守ることだけではない」と言っている。

手にぶら下げた振子が振れの中心に徐々に収まってゆくように、ある何かの状況により起きた矛盾は時間の経過とともに徐々に解消されてゆく。しかしその振子をぶら下げる手が不動の姿勢を保っていないと、振子の大振れは何度も起きることだろう。「不動の姿勢」は軍隊の教育における用語であるが、日常生活においても大事な徳目を表す言葉である。

これを国家として考察すると、日本の場合江戸時代が終わり幕藩体制から明治の新政府のもと新体制に変わったときその振子の大振れがあった。次に日本がアメリカとの戦争に敗れ大日本帝国が崩壊し、戦勝国アメリカからアメリカ流の体制を押し付けられたとき、再び大振れがあった。それでも日本には万世一系の男系皇統の天皇がいて、仏教や神道を中心とする文化が根付いていたから、これまでは日本は国家の体制が崩れることなく安定してきた。しかしその仏教がアメリカナイズされた世相に影響され、仏教関係者・団体の怠慢もあって本来の目的を見失ってきている。儀式第一の仏教が横行していることは否めない。

NHKEテレで『こころの時代』という番組がある。今日は原爆孤児を救った故谷本清牧師の長女・近藤紘子さんが出演していた。谷本清牧師は関西学院大学神学部を卒業後、1940年にアメリカのエモリー大学大学院を修了されたお方である。私は日本ではキリスト教徒の方が仏教徒より人々の心の問題を救うため積極的に活動しているように思う。

仏教は輪廻転生を教えている。その番組を見て私は谷本清が新渡戸稲造の生まれ代わりではないだろうかと思った。新渡戸稲造が書いた本『武士道』(奈良本辰也訳・解説、知的生き方文庫)に「仏教は武士道に、運命に対する安らかな信頼の感覚、不可避なものへの静かな服従、危険や災難を目前にした時の禁欲的な平静さ、生への侮蔑、死への親近感などをもたらした。・・・(中略)・・・仏教が武士道に与えなかったものは、神道が十分に提供した。・・・(中略)・・・道徳的な教義に関しては、孔子の教えが武士道のもっとも豊かな源泉となった」と書かれている。

善因善果・悪因悪果。地獄極楽も「この世」にある。しかし輪廻転生によって「この世」の行いの結果は「あの世」おける結果として必ず起きる。仏教はそのように教えている。このことは科学の知見として理解できる部分が少しはある。ただし「あの世」のことは誰も分らない。これだけは自分の身近なところで起きていることについて、自分自身で“これは多分(過去に生きていた)誰かの「あの世」を生きている状態に違いない”と思い込むしかない。しかし善因善果・悪因悪果は「この世」でしばしば起きていることであるので、誰でも分ることである。性根が悪く素直でない者はこの事実を素直に受け容れようとはしない。

『教行信証』で親鸞聖人は「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の廻向あり。一つには往相、二つには還相なり。(つつしんで、浄土真宗の法をうかがうと、如来より二種の相が回向されるのである。一つには、わたしたちが浄土に往生し成仏するという往相が回向されるのであり、二つには、さらに迷いの世界に還って衆生を救うという還相が回向されるのである)」と仰っている。 *衆生は一切の生類、生きとし生ける物全てを指している。

「往相」「還相」について私は今の私の勉強の結果では次のように理解している。即ち、「往相」とは、私たちが阿弥陀如来(Amitāyus Buddha)を心から信じて「南無阿弥陀仏(Namo Amitāyus Buddha)」と念仏を唱え、釈尊(Śākyamuni)シャーキャ族の聖者の教えを良く学び、行いを正しくして常に他者を愛し、他者の利益の為に働けば、自分の死後必ず浄土に生まれ替わることを言うのであり、「還相」とは煩悩に生きている「この世」にあって阿弥陀如来を心から信じて「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え、常に他者を愛し、他者の利益の為に働くことによって人々の心を救うことである。「阿弥陀如来は私たちに対して常に救いの手を差し延べて下さっている」と心から思っていることが何よりも重要である。この点、阿弥陀如来への信仰はイエスキリストへの信仰に似たところがある。

今の日本では仏教の寺院も僧侶も収入を得るため仏教の儀式に精を出しているような状況ではないだろうか?これでは日本人の美しい精神性も次第に失われてしまうことだろう。新渡戸稲造が「この世」に生きて居れば、彼は日本の現状を嘆くことだろう。日本の仏教界が「儀式第一」「現世ご利益願望を満たしてお布施を得ようとする仏教」の現状を改めることに真剣にならないと、日本人の精神文化は衰退してしまうことだろう。


仏教界の指導者たちが権威にあぐらをかいて、僧侶たちに「世間を知って貰うための研修を行う」という上から目線の考え方をしているだけでは駄目である。寺院も僧侶も霞を食っていては存続できないが、出版による収益や儀式によるお布施を得ることに注力しているようであれば日本の仏教は衰退する。仏教系の大学等は一般の家庭教育・児童施設における幼児教育・学校教育などを通じて、仏教の振興のため何らかの浄財が集まるようなシステムを考え出すように発想を大転換し、自らの意識を改革するべきではないだろうか?