2017年1月7日土曜日

20170107『仏説阿弥陀経』について(3)


 私は他界した継母の葬儀のとき自動的にあるお寺の門徒になった。私の実父と継母の墓はそのお寺の納骨堂の中にあり、私がその維持・管理の責任を負っていている。このような事情で私は今こうして遠隔地に住んでいながらもそのお寺の門徒になっていている。私は自分が門徒になっているお寺の行事にはその都度参加することは出来ないが会費等を指定の銀行口座に振り込んでいる。私は郷里で仏事があるときは帰郷し、そのついでにそのお寺にも立ち寄り、たまには報恩講にも参加し、墓参もしようと思っている。

 私は目下のところ「浄土真宗自分派」を自認し、独学で親鸞の教えを学んでいるところである。インターネットでダウンロードした本願寺派の『正信偈』『念仏和讃』『仏説阿弥陀経』『真宗宗歌』『恩徳讃』に唱和して、今これを書いているすぐ後ろの書棚の中に作ってある仏壇に向かって読経し、歌っている。経の文の意味も調べながら少しずつ理解している。

私は自分自身が仏教徒であると思っている。しかし浄土真宗本願寺派(西本願寺)や真宗大谷派(東本願寺)などの教団の活動に能動的に参加することを好まない。その理由は私が基本的に何でも特定の組織に加わることを好まないからである。何かの組織に入ると自分の自由度が阻害される。私はそれが嫌なのである。

 西本願寺派の高森顕徹というお方が創設した浄土真宗親鸞会という団体は、布教活動の仕方やマインドコントロールを含む諸活動について批判が出ているようである。この団体は本願寺から親鸞の教えを逸脱していると批判されている。一方この団体は本願寺派・大谷派に対して親鸞の教え等について10項目の相違点を挙げ、対立している。

 上述10項目の相違点について、私は「自分派」として自分なりに研究して本当に相違があるのかどうか明らかにして行こうと思う。おそらく本願寺派・大谷派も親鸞会も私のような者が現れることは予想もしていないであろう。私は日本人が親鸞について正しく知り、親鸞に学ぶ日本人が圧倒的に増えれば、この日本国はさらに良い国になると確信している。

 先ず相違の第一点は「親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?」である。本願寺は「説かれていない」と言い親鸞会は「説かれている」と主張している。親鸞会は「人生の目的はある。だから早く達成せよ」と親鸞聖人は仰っている、と言う。私はこの点について先ずよく調べてみようと思う。

 そう思い、上述「親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?」のリンクをクリックしたら、「危険な Web サイトを遮断しました」とメッセージが出た。私はGoogle Chromeを使っていてセキュリティはノートンを使っている。このためこの警告が出る。使っているブラウザやセキュリティの対策によってはこのような警告は出ないだろう。危険である。

 私はまだ研究の途中であるが、親鸞聖人は決して「人生の目的はある」とは仰っていないのではないかと思っている。その理由は、私たちが認識する世界は大自然そのものであり、生きとし生ける物すべてに生老病死があり、私たち人間だけが物事の善悪を判断し、意識をもって行動しているがそれは私たちが発達した脳をもっている生物であるにすぎないからである。私たち人間はそういう生物であるから勝手に「人生の目的」を考えるが、その目的は万人共通ではない。万人共通でない特殊的なことについて親鸞聖人が「人生の目的はある」と仰るはずがない、と私は思っている。

私は阿弥陀仏(Amitāyus Buddha)が大宇宙そのものであると考える。人間は宇宙の営みに逆らうことは決して出来ない。17世紀の哲学者スピノザは「神は自然である」と言った。それは汎神論哲学と言われる。私はその哲学をさらに発展させて、「宇宙は生命体のようなものである」と思いたい。

そういう立場で人間は「善男子・善女人」として悪いことをせず、人間以外の生物のように全てを宇宙に委ね、現状のありのままを受け容れて自分の生死に逆らわず生きるならば、誰でも今の人生も後の人生も苦悩の無い人生になるだろう。勿論、人間であるから生老病死の苦を背負っている。その「苦」をありのまま受け容れて運命に対しては従容とした態度をとる。そういうことは人間だけができることである。勿論そのように従容とはしておれないのが多くの人間の有り様である。そういう態度は修養によってのみ身に付くものである。

他の生物に捕食される生物は捕食される前は逃げ回る。生物は他の生物に捕食されても自分の種を残すように、またなるべく他の生物に捕食されないように進化している。これが生物を多様にしている。生物は他の生物に捕食されたとき痛みを感じるだろうが、そのまま食べられている。人間だけはそのことを悲惨に感じ、残酷に感じる。人間は自分が殺されることを恐れるが、殺された後自分の魂は残ると考える。他の生物にはそのような考えはない。

自分の死はそれで全て終わりではなく、いわゆる「あの世」に生きることになる。それが宇宙の定めである。そのように信じることができれば「この世」での迷いは無くなる。宇宙を阿弥陀仏(Amitāyus Buddha)であると考えるならば、宇宙はそのようにして人間と言う生物に救いの手を差し延べてくれていることになる。まだ哲学として確立していないが、私はそのような方向で思索中である。生物学・量子科学・宇宙科学などの知見やAI技術などは将来人間を宇宙に帰一させる哲学を生むかもしれない。