2017年1月3日火曜日

29170102『仏説阿弥陀経』について(2)


 私は今年80歳、私の妻は76歳になる。何十年か以前、私は80歳の人を随分年寄りだと思っていた。その自分がそういう年齢になっている。昨日10歳年長の友人Kさんから年賀の贈り物が送られてきた。Kさんは奥様を亡くされていて身寄りもない方であるが、福岡に建てた自分の家で独り暮らしをされている。彼は横浜にも奥様と長年暮らしたマンションの一室を所有していて、毎年福岡と横浜の間を行き来している。そのとき彼は東京と小倉の間でフェリーを利用している。私は余生に一度ぐらいは一人旅をしてみたいと思っているので、その片道は彼と一緒にフェリーを利用してみたいと思っている。

 彼からの贈り物は福砂屋のカステラが2本入りである。夫婦二人暮らしの我が家はあちこちからの頂き物の菓子が沢山ある。息子たちの嫁たち・近所の方・妻の友人からいろいろな贈り物を頂いた。勿論私たちもそれぞれ何か贈り物をしている。お互い相手に喜んで貰えるような物をよく選んで送り合い、言葉を交わし合ってお互いの絆を深め合っている。

若い頃近海マグロ漁船の無線通信士仲間であったI君は10数年前他界したが、長崎に住んでいるその妻のKzさんから自分の畑で実ったみかんが送られてきた。私はI君と下宿も共にし、同じ部屋で寝起きしていた。Kzさんは鹿児島のある漁村の病院の看護師をしていた。私は虫垂炎になりその病院で手術を受けた。そのとき私はKzさんと知り合いになった。私はI君とkzさんの祝言に出席し、私たちの祝言にはI君とKzさんが出席してくれたが、その後50年もお互い会っていなかった。その理由は私とI君がそれぞれ思想上対立する職場に勤めるようになって、I君の方で身を引いたからであった。私はNTTの電話番号案内でI君に連絡をした。そのときKzさんが電話口に出てI君が既に他界したことを話してくれた。

私はSちゃんと愛称で呼ぶ2歳年長の女性と3年前から交際している。Sちゃんも看護師であった。彼女は近海マグロ漁船の船主の娘であり、私が乗っていた船の船長の妹である。50年ほど前私はSちゃんと喧嘩別れしていたが、3年前NTTの電話番号でSちゃんの兄である船長だったHさんが存命だと思い、連絡をとった。Hさんは既に他界されていた。そのときSちゃんが我が家からそう遠くない所に34年前から独り暮らしをしていて、未婚のままであったことが分った。以来、私は私の妻の同意の下、ときどきSちゃんに会っている。先日千葉に住んでいるSちゃんの姪っ子のご主人から美味しい新米が送られてきた。

Kさん・Kzさん・Sちゃん、それに私と私の妻。皆いい爺さんと婆さんになってしまっている。そのうち誰かが先にあの世に逝く。身寄りのないKさんの義理の甥っ子から福岡産の新米が送られて来た。私はSちゃんの姪っ子のご主人とKさんの義理の甥っ子のお名前と住所と電話番号をしっかり控えてあり、何かあればその方に連絡をする準備をしている。一方で私が先にあの世に逝った場合には私の息子たちからKさん・Kzさん・Sちゃんに必ず連絡してもらうように準備している。

 私は阿弥陀仏に帰依し、毎日読経し、すでに浄土に生きているつもりであり、苦悩も迷いもなく安心しきっている。しかし煩悩を拭い去ることは絶対出来ない。和讃に「五十六億七千万 弥勒菩薩は年を経ん。 まことの信心得る人は この度悟りを開くべし。 念仏往生の願により 等正覚に至る人 すなわち弥勒に同じくて 大般涅槃を悟るべし」とある。

 言葉の意味を調べた。「弥勒(Maitreyaの音写)」とは「釈迦牟尼仏(Sākyamuni Buddha釈迦族の聖者でそのまま仏陀であられる人の意)」の次に現れる未来の仏陀(Buddha)のことである。「菩薩」は「菩提薩埵(ぼだいさったBodhi-satvaの音写)」を簡略したものであり、一口で言えば仏教の修業者のような存在である。「等正覚」とは「生死の迷いを去って、いっさい の真理を正しく平等に悟ること」である。「大般涅槃」は天台宗の大般涅槃経(だいはつねはんきょう)」による言葉で「煩悩を滅却して自由となった状態」のことである。
 
 「弥勒」については『仏説無量寿経』に書かれている。『仏説無量寿経』は『仏説阿弥陀経』よりも100年以上前に魏の康僧鎧によって翻訳されたお経である。一方『仏説阿弥陀経』は現在の新疆ウイグル自治区出身の僧侶で、「三蔵法師」という称号を与えられている鳩摩羅什(くまらじゅう/くもらじゅうKumārajīvaの音写)によって翻訳されたお経である。

 これら古代中国の先人たちによって古代インドから古代中国に仏教が伝えられ、聖徳太子・聖武天皇・最澄・空海・法然・親鸞ら日本の古代の先人たちがその仏教を学び、日本国内に広めた。今を生きる我々は書物やインターネットにより公開されている仏教の資料によりかなり楽に仏教を学ぶことができる。真に有難いことである。真宗の宗歌『恩徳讃』に「師主知識の恩徳も 骨をくだきても謝すべし」とある。真にそのとおりである。

 私の妻もそうであるが、Kさん・Kzさん・Sちゃんも私のように熱心な仏教徒でなくても、皆それぞれ菩薩のような人たちである。私は宿業が深かったからこれまで随分私の妻を悩ませてきており、今も悩ませている。この記事を書いているすぐ後ろの書棚の中に仏壇があり、私は阿弥陀如来絵図に向かってしばしば合掌し、「南無阿弥陀仏(私は阿弥陀仏Amitāyus Buddhanamoします)」と念仏している。


因みにnamoはサンスクリット語句「貴方に敬礼します」に由来するものであり、ヒンディー語では「こんにちは・ありがとう」といった日常の挨拶言葉らしいが、仏教では「「帰命」という漢訳から連想されるような強く宗教的な意味になっている(Wikipediaによる)。