2015年12月18日金曜日

20151218「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(2)   ―― 母の命日 ――


 1218日は、私の生母の命日である。母は昭和21年(西暦1946年)のこの日、享年33歳でこの世を去った。母は大正3年(1914年)110日生まれであったから、享年は殆ど満年齢に近かった。死因は乳がんであった。

 叔父が二度目の出征前の昭和18年(1943年)に実家で祝言を挙げたときの集合写真がある。その叔父の長兄である私の父は当時朝鮮で国民学校(小学校)の訓導(教師)をしていて、青年訓訓練所の指導員もしていた。父は母と私たち兄弟及び乳飲み子だった妹の3人の子供を連れて一時帰郷し、その祝言に参加していた。祝言には近所の方々が手伝いにきてくれていて、仏間とそれに続く座敷で行われた。当時はそのような儀式があるときの会食には一人一人のお膳があり、その料理を作ることやお膳を並べることなどを近所の方々が手伝っていた。

 それから2年後日本は戦争に敗れ、母と私たち子供3人は終戦直後朝鮮から引き揚げてきた。当時国民学校長や青年特別訓練所所長・女子青年錬成所長などをしていた父は朝鮮に残留し、9月末に帆船で引き揚げ、博多に上陸した。そのとき既に母の乳房にはがんが出来ていた。母の乳房には小さいおできのようなものが出来ていた。母は別府の病院で片房ずつ両方の乳房を切除する手術を受けたが既に手遅れで、翌年のこの日(1218日)にこの世を去った。その時私は9歳、弟は7歳、妹は3歳であった。

 母は入院中見舞いに訪れた私と弟にマグロの刺身のお茶漬けを作って与えてくれた。米は入手困難であったに違いないが白米のご飯であった。その米は祖母が父に託したものであった。父は当時38歳であった。私たち兄弟は父に連れられて一面焼け野原になっていた大分市街地を路面電車に乗って別府に向かった。焼け野原は戦時中米軍による無差別爆撃によるものである。当時55歳であった祖母も米軍機による機銃掃射を逃れて橋の下に避難したことがあった、という話を私は祖母から聞いている。

 人はこの世に生を享け、いずれは草木が枯れるように枯れて朽ちてゆく。草木は若い芽を出していずれ土に還るがその期間は一定でないように、人の一生も同様である。戦斗や戦火により短い生涯を終えた人も、生きながらえて天寿を全うした人も同様である。しかし、人は特異な死に方をした人のことを生涯思い続けるものである。人は志をもって短い生涯を駆け抜けた人のことを特別な思いで想うものである。私の母にも志があった。母は死の直前私に死に際の有り様がどうあるべきか示してくれた。侍の子孫であった母は私たちにがんの苦痛のことを全く示さなかった。そのことが私の精神的支柱を形成している。

 病院から見放され私の祖父母の家で死の床についていた母の背中には一面に多数のこぶが出来ていた。母は私に「起こしておくれ」と言い、私が母を床から起こしてあげると「背中をさすっておくれ」と言っていた。しかしこの日(19461218日)には「背中をさすっておくれ」とは言わず、「東を向けておくれ」と言い、「御仏壇からお線香を取ってきておくれ」と言い、私がそのようにしてあげたら、今度は「お父さんを呼んで来ておくれ」と言った。私は裏山で地面に落ちている枯れ松葉をかき集めに行っていた父を呼びに行った。父と共に戻って来たときには母は布団の上に寝かされていて、既に死んでいた。

 先祖が同じである新宅のH叔父さんは私たち小さい子供3人に「真剣にお経を上げるとお母さんに会えるよ」と言っていた。私たちは「帰命無量寿如来」で始まる七言絶句の長詩を暗唱するほど、毎日仏壇の前で熱心にお経を上げていた。

 私は前世・現世・来世にわたる因果応報を確信している。これまでの人生を振り返ると、「あの時は亡き母が守ってくれたに違いない」と思うような危険なことも何度かあった。私は、今享受している幸せは母や先祖の導きによるものであると思っていつも感謝している。

 私は、「人は死んでもその意識は無くなることはない。今生きている自分が意識をその死んだ人に向けるとき、過去に生きた人の意識は今生きている自分の意識と共鳴・共振する。意識には自分自身が気づかない深層の無意識もある。やがて自分もこの世を去るが、私の意識は後の世に生きる人の意識と触れ合うに違いない」と固く信じている。

 私は、「阿弥陀(Amitāyus無量寿・Amitābha無量光)」(『仏教要語の基礎知識』水野弘元著、春秋社より引用)は、宇宙そのものであると考えている。現代の科学では宇宙は無数に存在しているとされている。その宇宙は一点から光を発し、無数の星々や無数の星雲が生まれ、その星雲の中の太陽系の惑星の一つであるこの地球上に私は生きている。私は、宇宙は一つの「生命体」のようなものであると考えている。

私は、親鸞は釈尊が説かれた真理を紐解き、仏に帰依する方法の一つとして「阿弥陀仏が人々に救いの手を差し伸べて下さっているので、ひたすら阿弥陀仏を信じ、阿弥陀仏にすがりなさい」と教えられたのだと思っている。


私は、人は阿弥陀に全幅の信頼を置けば、人生における「苦」は無くなると思っている。今、母の命日に当り、報身仏である「阿弥陀如来」すなわち「阿弥陀仏」を信じ、手元に阿弥陀仏の画像が無くても心の中でその画像を思い描き、「南無阿弥陀仏」と何度も唱えれば、私の心は自ずと平安になる。真に有難いことである。

2015年12月5日土曜日

20151205「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(1)


 この二ヵ月半ばかりの期間、非常に多忙であった。7月に96歳の誕生日を超えた母は、9月末、体調に変化が生じ、一週間後他界した。その母は私が13歳のとき父の後妻としてわが家に嫁いできた。その翌年、父母は生後5か月の乳飲み子を連れて実家を去り、山奥の村の小学校の助教諭として赴任した。父は3年後正規の教諭に復帰することができたが、それまでは助教諭の身分で、自分よりずっと後輩の校長の下、親子三人で懸命に生きた。私は今から何十年か前、その母から自分の半生を綴った手紙を貰っていた。それには母の苦労話が書かれていた。

母は60歳の時、30年間連れ添った夫、つまり私の父が他界した。それ以降、母は一人暮らしをしながら家を守っていた。母は84歳の時大腸がんに罹ったが、その時は手術でその腫瘍を取り除いた。その一年後大腸がんが再発したが、そのときは抗がん剤の投与により完治した。しかしその後母は微熱を出すことが多くなり、認知症の症状も出始め年月を経るにつれその症状は進行した。84歳になって大病を患って以降、母は訪問介護・デイサービス・ショートステイなどのサービスを受けていたが、94歳のとき地域密着型の特別養護老人施設に入居した。母は他界する4か月前、携帯トイレ使用時に大腿骨脛部を骨折して4週間ほど入院していた。退院後、母は施設内で車いすを利用する生活になった。

私たちは毎夜8時半過ぎに施設に入居中の母に電話をかけていた。電話口で母は「皆とおしゃべりしていて今(自分の部屋に)戻ったところ。よく歩けるし、よく食べれるし、毎日楽しくて仕様がない。皆元気かえ?」と言うのが口癖であった。施設からの電話で母が「微熱を出した」と連絡を受けて、私はその施設に依頼して、母が父の他界後その施設に入居する前までの間ずっとお世話になっていたK病院に母を入院させた。K病院は母が父他界後35年間ほど独り暮らしをしていた家の近くにある。私たちはその家から毎日K病院に通い母を見舞い、母と会話を交わしていたが、母が急変したのは死亡する前日のことであった。その時母は「入れ歯をしたい」とか「トイレに行きたい」などとぐずっていた。それが最後であった。

その母が死んで仮通夜・本通夜・告別式が終わり、その後「中陰」という七日ごとの法要を檀家になっている寺の住職(「ご院家さん」と呼ぶ)に自宅に来て頂いて行い、七七日(「満中陰」、一般に「四十九日」と呼ばれる)の法要が終わって一先ず忌明となった。その法要の後、近くのホテルで法要に参列した家族・親族・ご近所の方々がご院家さんを囲んで会食し、会食が終わった後に予め用意してあった菓子包みを参列者全員に配り、「香典返し」や弔電へのお礼など済ませてようやく一連の行事が終わった。

都会では主に家族だけで行う仮通夜をしないし、初七日は告別式の直後に行い、その後も七日ごとの法要はしない。しかし私はそれは間違った習慣であると思っている。葬儀・法要を「儀式」の側面のみをとらえて考えるのか、仏教の深い教えに触れることができる機会であると考えるのか、その違いによって人々の意見が分かれる。いわゆる「葬式仏教」という悪い文化を生み出したのは、僧籍にある人たちの堕落と、人々の間違った観念・習慣によるものである。貧しければ貧しいなりにも法要はきちんと行われるべきである。

仏教は古代インドで起こり、中国・朝鮮を経て日本に伝わり、日本で興隆した。報身仏である阿弥陀仏にひたすら帰依し、自らの精神を高めて行く「他力本願」の信仰は戦前までの日本人の精神を形作っていた。一方、厳しい修業により仏の法に近づこうとする「自力本願」の信仰も日本人の精神要素の一部になっている。その他現世ご利益にすがろうとする信仰も根強いものがある。


親鸞も日蓮もそれぞれ釈尊(お釈迦さま)の教えを紐解いて人々に伝えているものであって、決して親鸞や日蓮がそれぞれ自ら新たな宗教を生み出したわけではない。私にとって、親鸞の教えは最高である。私は阿弥陀仏にすべてを預けていて、非常に心やすらかである。お蔭様で私は「これが神通力なのだ」と思うようなことを毎日のように経験している。それは観方によっては「たまたま起きた偶然のこと」かもしれないが、私はそれを「起きるべくして起きた必然のこと」と受け止めている。私は生老病死他「愛別離苦」「求不得苦」などの四苦八苦をそのまま受け入れるつもりである。たとえ自分に、或いは自分の身近な人に、思いもよらぬことが起きたとしても、私はそれを従容として受け入れる心がけでいる。

2015年10月31日土曜日

20151031遊煩悩林現神通(ゆうぼんのうりんげんじんづう)―― それは 個人にも国家にも ――


この語は真宗の『在家勤行集』の中にある。これは「煩悩の林に遊び、神通を現わす」という意味であろう。因みに「神通力」とは「禅定などによって得られる不思議な力」。「禅定」とは「座禅によって精神を統一すること」である。(三省堂『漢辞海』より引用)

 「神通」には「天耳通・他心通・宿命通・天眼通(有情死生通)の五神通がある(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』より引用)。人はどうあればこの「神通力」を得ることができるのであろうか?私は次のようにあれば自ずとその「神通力」が得られるに違いない、と思っている。私は座禅をしたことがないので分からないが、生まれつきの性格や日常の精神や生活の有り様によっては座禅をしない人でも「神通力」が得られるに違いないと思っている。
    欲がなく、物やお金や地位や名誉で自分が他人より優位に立とうなどと全く思わないこと。
    見栄を張らず現状のあるがままに満足していて質素であること。
    謙虚で誠実であること。
    自分の身体は自分の物であるが、一方では自分の物でもないと思うこと。
    自分の人生は、自分がこの世に生を享ける以前にこの世を去った誰かの生まれかわりの人生であると思うこと。
    自分の生活において、偶然に起きたことは何か見えない力により必然的に起きたことであると思うこと。
    釈尊(お釈迦さま)の教えを学び、素直にその教えに従い、お釈迦様を信じること。
など。

 人はこの世に生まれた時から「苦しみ(=苦)」を背負っており、この「苦」は死なない限り無くすことはできない。この「苦」には「生まれること(生)・老いること(老)、病むこと(病)・死ぬこと(死)」の四つの「苦」(=四苦)の他、母の胎内で卵子が幾多の精子の中のたった一つの精子と出会って結合した瞬間から過去を背負ってこの世に生まれ出で、人生を歩む過程において味わう四つ「苦」がある。この四つの「苦」と合わせて、人はこの世で「八苦」の中で生きなければならない。

 「嫌いな憎い人びとと出会い、共に暮らすこと(=怨憎会苦)」・「愛する人びとと生別し死別すること(=愛別離苦)」・「自分の思いどおりにならないこと(=求不得苦)」の他、「生老病死(=四苦)」とこれら「怨憎会苦・愛別離苦・求不得苦」の三つの「苦」を概括した「五取蘊苦(ごしゅうんく)、旧約では五盛陰苦(ごじょうおんく)」の四つの「苦」を合わせて「四苦八苦」となる。「五取蘊」とは「取著ある心身環境のこと」である。

 仏教において仏身には「法身」・「報身」・「応身(または化身)」の三つがあるとされる。「法身」は仏の説法として真理を人格化した「真理仏」である。「報身」は信仰の修行や誓願が完成して、その結果として得られた完全・円満な理想的な仏陀のことである。これには阿弥陀(Amitāyus)仏・無量寿(Amitābha)仏・無量光仏・薬師如来がある。「応身(又は化身・応化身)」は教化の対象に応じて仮にある姿を化作した仏身のことである。2500年前にインドに出現した釈迦仏(=お釈迦さま・釈尊)はこの「応身(又は化身・応化身)」である。(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』・『仏教の基礎知識』を参考に一部引用)

 「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)の「南無」はサンスクリット語のナマス(namas)およびナモー(namo)の音写で、「敬意・尊敬・崇敬」をあらわす感嘆詞である(Wikipedia)。

 お釈迦さまは人間としての生き方はどうあるべきか、ということについて教えて下さった。私は、人はその教えを素直に受け入れ、生死に無関係に、前世から現世、さらに来世へと続く因果応報を信じ、貪り・怒り・愚かさの煩悩の心のまま喜怒哀楽しながら、しかし殺人・盗み・邪淫・邪欲・詐欺・恨み・憎みなど人の倫から外れた行いはせず、愛他・奉仕の精神で日々を送るようにするならば、誰でもきっと幸福になることができるに違いない、と思っている。五体不満足な人でも、また傍から見ていてとても可哀そうな人でも、その人自身は決して不幸に思っていない。その人は自分に起きていることを決して偶然に起きていると思っていず、それは必然的に起きていることだと思い、悲しみもせず、誰かを憎んでも恨んでもいず、いつも柔和に頬笑んで自分にできることをしている。

 国家は人びとの集合体である。日本という国家は万世一系天皇を戴いていて、日本人は天皇のもとに集う家族のようである。天皇は常に日本という国と日本に暮らす人々の幸せのみならず世界の平和を祈って下さっている。日本は他国を武力により支配下に置こうというような野心は全く持っていず、世界の平和と繁栄のため、誠実に、謙虚に、積極的に貢献している。日本がそういう国であり続ける限り、日本は幸福な国であり続けることであろう。


 日本の領土を不法に占拠し、あるいは日本の領土を奪おうとし、あるいは日本の領土・領海・領空・排他的水域を侵犯している国がある。日本は常に冷静にそういう状況に対処してきている。しかし、「神通力」が日本に作用していて日本を守ってくれている。私は、日本を取り巻く状況の中において日本にとって幸運な出来事は偶然に起きたことではなく、それは必然的に起きていることである、と思っている。「煩悩の林の中に遊びながらも神通力が現れる」状況は、無欲・誠実・謙虚な人々にも国家にも現実に起きているのである。

2015年9月28日月曜日

20150928政府が積極的に説明しない日本の安全保障環境


政府は外交上の配慮からか、尖閣諸島における日中の軍事的緊張関係について、日本国民に対して具体的に積極的に説明していない。

航空自衛隊ではロシア空軍や中国空軍の偵察機・爆撃機に対する緊急迎撃発進(スクランブル)の回数が非常に増加して来ている。北朝鮮は核兵器搭載も辞さない姿勢で中距離弾道ミサイルの発射を行う姿勢を見せている。東アジアにおける緊張は近年非常に高まってきている。自衛隊と在日アメリカ軍はこのような状況に対処するため必要な措置を講じているようである。その一つが軍事的同盟関係にある多国籍軍の間の様々な共同訓練である。

今回成立した安全保障関連法は「日本が戦争に巻き込まれないようにするための法律」である。共産党や社会民主党がこれを「戦争法案」だとレッテルを貼って国民を扇動している。民主党や維新の党などもこれらの法律が「憲法違反」だとして、共産党との間で選挙協力をしようとしている。日本の存亡にかかわるような状況が起きようとしているのに、彼らは日本国民を守ることよりも党利党略にエネルギーを費やしている。

そもそも国家の存続・平和・安全のためとる行動は憲法にその定めがなくても自然法的に認められる国家固有の自衛の権利である。国民は誰から言われなくても自ずと「平和で繁栄していて安全な国家」の中で心の安らぎを得たいと願っている。それが「民の心(=民心)」である。ところがこれらの政党に所属している愚かな政治家たちは、自分たちを支持して議会に送ってくれたのは、その「民の心」によるものであると思いこんでいる。

彼らは「民意」と「民心」の区別をしていない。彼らを議会に送り込んだのは民が彼らに議会で彼らが掲げる政策を実現してもらいたいという「民の意識(=民意)」である。民は彼らに自分たちの平和と安全と繁栄が脅かされるようなことをして欲しいとは決して思っていない。そのことを彼らは認識していず、自分たちが民よりも偉い者であると己惚れている。これは無意識にそうなったのであろうが、実際、今回成立した法案の審議の過程で彼らはカメラに向かってそのような態度を示した場面があった。テレビで見ていて非常に不愉快であった。かれらに我々の税金で高い報酬を支払う必要は全くない!

中国は尖閣諸島を囲む防空識別圏を勝手に設定し、その圏内を飛行する民間航空機に対して、中国当局に事前に飛行計画を提出するよう要求した。

中国は太平洋上に第一列島線・第二列島線を引き、アメリカに太平洋の管理を中国・アメリカの二国間だけで共同で行おうと提案した。太平洋には日本の権益も勿論のこと、オーストラリア・ニュージーランド等大洋州諸国の権益も東南アジア諸国・台湾の権益も非常に大きい。

中東から日本に石油を運ぶシーレーンはインド大陸の西岸→スリランカ南岸→アンダマン海→マレーシア・スマトラ間のマラッカ海峡→南シナ海→台湾海峡を経由している。そのシーレーンを脅かすように中国は南シナ海の南沙諸島に軍事基地を建設しようとしている。海上自衛隊は日本のシーレーンを守るための能力を高めつつあるようである。

国家間の緊張はそれぞれ国家が自存を目指す行動によって生じる。日本に対して非礼かつ非友好的な国家が軍事力を高めれば日本はこれに対抗せざるを得ない。さもないと日本はそのような国家の思いのままになってしまい、日本国民の平和・繁栄・安全は保たれなくなってしまう。その結果日本国民の安心も得られなくなってしまう。

中国は沖縄諸島が古来中国領であったとしている。中国が用意している『琉球復國運動基本綱領』という文書、及び『琉球臨時憲法九条』には、一部の沖縄の人たちが求めている「琉球独立運動」と呼応するようなことが書かれている。その『琉球臨時憲法九条』の第四条には「琉球共和國由三個主要的州:奄米州, 沖繩州, 八重山州組成,各州包括了三個列島群在的琉球群島的所有島嶼.(琉球共和国は三つの主要な州、つまり奄美州、沖縄州、八重山州から構成され、各州は三個の列島群を内包する琉球群島所有の島嶼)」(2012年『月間WILL5月号より引用』と書かれている。かたくなに沖縄からアメリカ軍の基地の撤廃を求める翁長沖縄知事の本心はいったい何なのか?

中国は「抗日70周年記念」軍事パレードで“「空母キラー」と呼ばれる対艦弾道ミサイル「東風21D」、日本やグアムの米軍基地を射程に入れる中距離弾道ミサイル「東風26」、戦略爆撃機「轟6K」。”を展示した。「抗日」といっても日本と戦ったのは蒋介石の国民党軍であって毛沢東の共産党軍ではない。

以上及び以下に、読売新聞今年922日号「変わる安保2」から括弧(“”)で引用している。政府が外交的配慮からか日本国民に対して積極的に知らせなくても、また一部の報道機関が敢えて報道しようとしなくても、日本国民は自分の身に迫る危険を察知し、身を守るため団結するだろう。皮肉にも「戦争法案」「憲法違反」というレッテル貼りは日本国民にそういう行動をとらせるための非常に良い薬となっているのである。

“中国政府は。公船などを繰り返し尖閣周辺の領海に侵入させるとともに、尖閣の北方約100キロメートルの公海上に海軍の艦艇2隻を常時派遣、日本側に圧力をかけている。海自は同じ数の護衛艦で。「マンツーマン(11)デフェンス」に当たっている。

中国海軍は徐々に尖閣への接近姿勢を強めている。日本政府関係者によると、昨年後半から今年初めにかけては複数回、尖閣の沿岸から約70キロ・メートルにまで迫ったという。


親米マルコス政権打倒のナショナリズムに押され、比上院が米軍駐留の条約批准を否決したのは91年。アジア最大だったスーピック海軍基地とクラーク基地は、翌年まで返還され、米軍は全面撤退した。突然生まれた「力の空白」を突き、中国はフィリッピンの支配下にあったスプラトリー(南沙)諸島・ミスチーフ礁を95年に占拠。以降、大規模な岩礁埋め立てによって人工島を次々造成し、港湾や滑走路を整備していった。”

2015年9月23日水曜日

20150922政治家は「民意」と「民心」の違いを知るべし!


 先ず「意」と「心」の違いを知る。以下は『広辞苑』から引用し参考にしている。
「意」とは;①「心・心の動き・考え」
                       ②「物事の内容・わけ」
                       ③【仏教】広義では「思考活動一般」・狭義では「感覚的ではない、または抽象的な知覚能力」
       *「意」には「心」そのものの他「心の動き・考え」などが含まれる。
「心」とは;①「人間の精神作用のもとになるもの、またはその作用」であって、
  ア「知識・感情・意志の総体」
  イ「思慮・おもわく」
  ウ「気持・心持」
  エ「思いやり・なさけ」
  オ「情緒を解する感性」
  カ「望み・こころざし」
  キ「特別な考え・裏切り・晴れない心持・ふたごころ」
       ②【比喩的に用いて】
  ア「おもむき・風情」
  イ「事情」
  ウ「趣向・くふう」
  エ「意味」
  オ「わけ・なぞ解きの根拠」
  カ(歌論用語)「内容・歌の主題・題材・発想など」
       ③ア「心臓・胸・むなさき」
        イ「物の中心」
    である。  *「精神作用のもと」には意識されない「‘無意識・深層’の心」がある。

 沖縄県知事・翁長氏は「辺野古に新基地は造らせないとの公約実現に全力で取り組む」として政府と対立している。彼は「民意」を受けて沖縄県知事になった。しかし「民心」はどうであるのか?「民意」は民全体の「意」に非ず、過半数の「意」でしかない。
 
 民主党・日本維新の会(維新の党)・共産党などは今回成立した安全保障関連法案が「民意」に背くものであるとして政府と対立している。しかし「民心」はどうであるのか?

 私は、「民心」は「平和で繁栄していて強い国家の中で安心」を得ることであると思う。その「安心」を得る方法について、これらの党は「戦争法案」「憲法違反」などと主張し、盛んに宣伝活動を行って、国民の「不安」を煽っている。その活動の根拠を一部の有名な学者の発言に求めている。これはよく見受けられる商品の宣伝・広告の方法に非常によく似ている。

 彼らは;
    “万世一系の天皇を戴いている故に「安心」がある”という「民心」を忘れている。この「民心」と、労働組合など「人々の群れ」の「民意」(=個別の民意)とを分けて考えてはいない。“「民意」=「民心」”としている、或いは敢えてそうしようとしている。
  日本人種は縄文人と中国長江中流域からやって来た渡来系弥生人との混血人種(古墳時代人)をベースに、その後朝鮮半島などから渡来し帰化した人々や、特に戦後世界各地から日本に移住し日本人と混血した人々から成る雑種である。
  そのような多人種の民族の統合の象徴が天皇であり、天皇がましますゆえに日本は「単一民族国家」であり続けるのである。
  「雑種」であるがゆえに国内にいろいろな「民意」が存在し、「雑種」であるがゆえに人々が互いに競い合って科学・技術・ものづくり等に成果をあげている。
  「単一民族国家」であるがゆえに調和のとれた平和な社会が生まれ、人々はその社会で起きる問題を解決しながら国家として、また社会として進化を続けている。
  人々はそれぞれの群れの中で「互いに従順」である(文化人類学者・船曳建夫)。労働組合員・教職員組合員らはそれぞれの群れの中で「互いに従順」である。
    世界の地政学的構図はアメリカという現代の「西ローマ帝国」・ロシアという現代の「東ローマ帝国」、そして「漢族が中心の‘(共産党)王朝’国家シナ(中国)」・「‘日出る国の天子’を戴く日本」「東南アジア諸国」「中東イスラム諸国」「アフリカ諸国」などであり、その境界を巡って今もなお対立・紛争が続いている状況に目を向けていない。
    世界の秩序は全体的あるいは局所的における軍事力の均衡によって保たれている現実に目を向けていない。国家は「一つの‘野獣的生物’」である。これが現実である。
    日本はアメリカ・オーストラリア・ヨーロッパ諸国など「現代の‘西ローマ’帝国」の中で価値観を共有し、敵・味方対立の中で、陣営を共有する国々と軍事同盟関係をもつことによってしか、「日本国家として生き残れない」ということを認識しようとしない。
    「民心」は「平和で繁栄している強い国家」の中で「安心すること」であるということに気付いていない。

日本は、政権交代が行われるような国家であることが望ましい。野党の政治家たちは上記のことを自覚し、国家観を正して欲しい。国家観が欠如した政治家たちが結集しても所詮「烏合の衆」である。日本のためにはならない。

大衆の言動に「民意」を感じるのは良いが、「民心」を汲み取ることができない政治家は要らない。そういう「サラリーマン政治家」たちは国会から追放されるべきでる。

2015年9月11日金曜日

20150911集団的自衛権の行使について一言


 民主党を初め野党・一部の憲法学者らが集団的自衛権の行使について「たとえ限定的であっても憲法の範囲を超える」と主張している。共産党や社会民主党は安全保障関法案を「戦争法案」と呼んで国民の感情をその方向に引き付けようと躍起である。

 彼らがその法案に理解を示さない根本原因は何処にあるのだろうか?民主党の一部にはその法案の成立の必要性を理解している人たちもかなりいると思われる。しかし民主党は労働組合や日本教職員組合を出身母体にしている人たちが多い。党員たちの思想は国家のことよりも個々の国民のことに重きを置くという点では一致していているようであるが、国家のことについては一致点がないように見受けられる。

 国家のことについて「国家は一種の生物」であるという見方をしないと、左右の歩み寄りは出来ないだろう。ところが国家を「一種の生物」と見ることは、多くの日本国民にとってなかなか難しいことであるのかもしれない。なぜなら戦後の日本はアメリカの軍事力を頼みにして平和と繁栄を享受してきたからである。中国もロシアもアメリカの軍事力に敬意を示している。彼らはアメリカに刃を向けると手痛い傷を負うと思っている。戦後70年間平和と繁栄を享受してきた日本国民の中には、「性善説」に立って、日本が近隣諸国と懸命に善隣友好の外交に努めれば、日本は武力攻撃を受けるはずがないと信じ込んでいる人々が多いのかもしれない。

その人たちは「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(通称「日米安全保障条約」)によって、もし日本が某国から武力攻撃を受けたらアメリカは日本を守るためその強大な軍事力をもって反撃を加えることになっているのであるから、今更、憲法の解釈を変更してまでして「限定的な集団的自衛権の行使」に踏み切る必要はない、と思っているに違いない。しかしそれは幻想である。言うなれば、それは日本が「アメリカ旦那に囲われている妾・日本」のような、甘ったれた態度である。アメリカが「ライオン」であるならば日本は「虎」となって、お互いの利益を確保するため相助け合いながら、共通の「敵」に対抗しなければならないのが現実の世界の状況である。

 しかし、生物が自ら生き残るためそれぞれの種ごとに進化を遂げてきたように、「一種の生物」である国家もそれぞれ進化を続けている。しかも、それぞれの国家は「一種の生物」として環境の変化に適応しながら生き残るため、その保有している力(=軍事力・外交力)を高め、それを柔軟に使用できるように努力している。中国が「抗日戦勝利70周年記念」と称し、軍事パレードを行い、大陸間弾道弾・中距離弾道弾等のミサイルを誇示したのは、アフリカのサバンナで猛獣同士が自分の力を相手に見せつけようとする行動に似ている。

 「国家の自己保存」はいかなる国家にも備わっている固有の権利である。そのことは憲法にわざわざ書いていなくても元々国家が保有しているものである。その固有の権利を状況の変化に適応できるようにするため、最も効果的に、最も合理的に、最も経済的に行使することは政府の義務である。良識ある日本国民は、今の憲法の前文に書かれている「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われわれの安全と生存を保持しよう決意」するだけでは、日本の平和と繁栄が持続し得ない状況になってきていることを知っている。

 これを知らない、あるいは知ろうとしない政治家や学者は国家のことよりも自分の利益や自分が所属するグループの利益を優先しているか、元々、反権力・反国家の思想の持主であるか、あるいはただ情緒的に平和と繁栄を願望しているだけかのいずれかであろう。とは言え、この日本は言論の自由がある国家である。かつて、民主党政権のとき、人権保護法案という美名のもと、個人の言論を封じ込めようとする動きがあった。新聞社など報道機関の言論は認めるが個人の発言に対しては、外国人でもなれる人権保護員会の委員が目を光らせ、摘発することができるようになっていた。あのような悪法が自由民主党と公明党の政権復帰によって実現されなくなったのは、良識ある日本国民にとって幸せであった。

安全保障関連法案は国会において徹底的に議論されていて、その状況が国民に公開されている。言論が自由な幸せな国・日本の安全を隙間なく守るための安全保障関連法案が成立すれば、武力によって日本の固有の領土をかすめ取ろうと試みは挫折することだろう。国家は「一種の生物」である。生物は生き残るため、人間が言う「暴力」を振るう。そのような不法な力の行使ができないようにすることは、国民の幸せにつながることである。

3要件を満たすことを絶対条件とする、限定的な集団的自衛権の行使ができるようにすることは、今、日本をとりまく状況に適応して日本が「一種の生物種」として生き残り、進化するため絶対必要なことである。「一種の生物」である国家が生き残るということは、その「生物」の細胞のようである国民が平和に幸せに暮らすことができるということである。


言論は自由であるとは言え自分の主張を通すため集団を作って為す暴力的な言動を、野党とはいえ政党の党首が容認するようであってはならない。横浜で行われることになった安全保障関連法案に関する公聴会では、国会議事堂前で行われた同法案反対集会で見られたような「言葉の暴力」がないように願いたい。

2015年9月2日水曜日

20150901安全保障関連法案に対する反対者たち(2)


 東京オリンピックのエンブレムについて大問題となった。その背景にはアート製作過程における「無意識的な何か」が作用しているのではなかろうか?アートを作るとき芸術家は心の中に何かイメージを持っているだろう。そのイメージの元は自分がかつて何かを見て強い印象を受けていて、普段は表に現れないが自分の無意識の中にあるものとか、或は自分自身が全く意識していなくても、自分がこの世に生まれる前から定められているかのように自分の心の中に在るものであるとか、何か普通の人にはないようなものであろうと思う。

芸術家はそのイメージの元を自分の心の中で一つの形に作り上げ、何かを表現しようとするのだと思う。そしてそのように表現されて一つの形として表現されたものが、「盗作」「パクリ」とされてしまうことは起こり得るだろう。ただ、著作権が非常に尊重される社会、そしてインターネット上でその作品がその作家自身のオリジナルなものであるかどうかについて全世界的な点検が行われるようになっている現代では、自分が折角創作した作品がそのような「盗作」「パクリ」という汚名を受けないように細心の注意と点検が必要である。

 国立競技場と同様にエンブレムも作り直すことになった。問題が起きたときは先ず原点に立ち戻ることが重要である。そのときその問題にかかわった人を悪者に仕立て、その人を社会から抹殺するようなことをしてはならない。それは決して正しいことではない。物事を判断するときはそれを四方八方から眺めて判断するべきである。そういう意味で安全保障関連法案について思うことがある。
 
 安全保障関連法案を推進したいと考える側も、これに反対し法案の成立を阻止したいと考える側も、それぞれ自分の心の中にある「無意識的な何か」に動かされているに違いない。私は「国家は一つの生物種」であり、「生物は自己保存のため行動する」という考え方をし、東アジアの中で日本を含む諸国がそれぞれ自己保存のため行動している状況を自分なりに観察しているので、日本が生き残るためには安全保障関連法案の成立は是非必要であると思っている。

 産経ニュースに以下括弧(“”)で示す記事が出ている。安全保障関連法案の反対者たちもそれぞれ自分の心の中にある「無意識的な何か」に突き動かされて過激な言動をしていると思われる。ただ、石平氏が言っているように“言葉の暴力を容認するような「リベラル」はリベラリズムと言えるのか”という言葉には、大いに賛同するものである。

国会周辺で行われた安全保障法案反対集会に維新の党の党首は参加していなかったが、民主・共産・社民・生活の各党の党首が参加していた。各党首は石平氏の言葉をどのように受け止めているのだろうか?

 “東京・永田町の国会議事堂周辺などで行われた安全保障関連法案に反対する集会をめぐり、評論家の石平氏が「平和を語る資格」について産経新聞に寄稿した。石平氏は安倍晋三首相をののしる言葉の暴力に「日本のリベラルは死んだ」と嘆いた。寄稿の全文は次の通り。”

“8月30日、国会議事堂前での安保法案抗議集会で、山口二郎法政大教授は安倍晋三首相に対し「お前は人間じゃない」との暴言を吐いた。時代劇の決めぜりふからの借用らしいが、現代の人権感覚からすれば、それは明らかに、安倍晋三という一個人に対する言葉の暴力である。”

 “反安保法案運動が始まって以来、映画監督の宮崎駿氏は安倍首相のことを「愚劣」と罵倒し、日本学術会議前会長で専修大教授の広渡清吾氏は7月末に安倍首相のことについて「バカか嘘つきか」と二者択一の手法でののしった。そして学生団体「SEALDs(シールズ)」の中核メンバーの奥田愛基氏に至っては、8月の連合主催の国会前での安保集会で「バカか、お前は」と罵声を安倍首相に堂々と浴びせた。”

“こうした中で反安保法案運動はそのしかるべき趣旨から逸脱して理性と節度を失い、単なる安倍首相に対する「怨念の個人攻撃」へと変質した。このような「平和運動」はもはやその名に値しない。言葉の暴力を平気で振るうような人間たちに、「平和」を語る資格はどこにあるのか。”


 “さらに問題なのは、前述のような発言に対し、反安保法案運動の陣営から内部批判も自己反省もいっさい聞こえてこないことだ。日本の「保守」とは対極の「リベラル」を代表するような新聞などもそれをいっさい問題視していない。このような異様な事態はむしろ、日本のリベラル全体において基本的な人権感覚がまひしていることを示している。”

2015年8月31日月曜日

20150831安全保障関連法案に対する反対者たち


 産経ニュースから括弧(“”)で引用。
 “国会前集会発言集(1)「安倍は人間じゃない。たたき斬ってやる」”
 “安全保障関連法案に反対する市民団体が主催した8月30日の国会周辺の集会には、民主党の岡田克也代表ら野党幹部のほか、法政大の山口二郎教授や音楽家の坂本龍一氏、学生団体「SEALDs(シールズ)」のメンバーらが参加し、安倍晋三首相を「安倍」と呼び捨てにしながら、「戦争法案反対」「安倍政権打倒」などと訴えた。主な発言は次の通り。”

 “山口二郎法政大教授
 「安倍首相は安保法制、国民の生命と安全のためと言っているが、こんなものは本当に嘘っぱち。まさに生来の詐欺師が誠実をかたどったものだ。安倍政権は国民の生命、安全なんて、これっぽっちも考えていない。その証拠に先週、(東京電力)福島(第1)原発事故の被災者に対する支援を縮小する閣議決定した。線量が下がったから、もう帰れ。本当に人でなしの所業だ。・・・(中略)・・・安倍に言いたい。お前は人間じゃない! たたき斬ってやる!”

 ほほう。山口先生はそう叫んで、そこに集まった人々から喝采を浴びて溜飲を下げたことであろう。物事には概して陰陽・正負・表裏等の二面性あり、一方だけ見ようとしていると他方が見えず、自分の「こうあるべき」という基準に合わない言動に立腹するものである。

 民主党の岡田代表は当該「法案が憲法に違反」していると言う。同党の枝野幹事長は「安倍政権の暴走を阻止」すると叫ぶ。共産党は当該法案が「戦争法案」であるというレッテルを貼り、国民の感情をその方向に導こうと懸命である。

 国家が何年・何十年という時間的経過の中で、今どのような危機にさらされているかということを国民大多数に理解してもらうことは極めて難しいことである。政権を担ったことがある政党の幹部であれば、その理解度が一般国民よりも少しは高い筈である。しかし彼らはその危険性を理解していながら、ではどのようにして国家・国民を危機から回避させるかという考え方も示さず、ただ当該法案にただ反対している。彼らは国家のことよりも自分たちの利益を優先しているようにしか見えない。

 国民は馬鹿ではない。人は私心のない人を信頼する。人々は自国の危機について理論整然と理解していなくても、直感的に危機を感じている。安倍総理のアメリカ議会における演説によって日本はかつての敵国アメリカと完全に和解し、アメリカと軍事・経済・外交の面でがっちりと同盟関係を固めた。そのことによって日本は軍事的にも経済的にも外交的にも、最も効率よく最も経済的に自国の防衛力を高めることが出来るようになった。このことによって敵は日本を簡単には攻め落とすことができなくなっているのである。

 大多数の日本国民は敵のあらゆる戦略・戦術について、自由に飛び交う情報によって多くの知識を得ている。このように進化した日本国の国民は、敵の宣伝・プロパガンダを「またやっているぞ」という程度に軽く受け止めている。私心のある政治家たち、或は物事を一方からだけしか見ようとしない政治家たち、或は名声がある学者・識者たちの個人的な意見を信奉する政治家たちに顔を向けながら、腹の底ではその人たちを信用していないのである。そのような政治家たちに面従腹背するのは日本人の特質によるものである。日本人は「枠の中で互いに従順」(文化人類学者・船曳武夫氏の読売新聞投稿記事より)なのである。もしかして、安全保障関連法案に対する反対者たちもそうなのかもしれない。

2015年8月16日日曜日

20150816男・オスの本質 ―― なぜ力の同盟が必要なのか考える ――


 我が国にける殺人犯の男女比について、統計上では男が約80%、女が約20%である。野生動物、特にライオンなどの猛獣はメスをめぐってオス同士が争う。人間も動物の仲間であるので男同士が争うことが多い。男も動物の仲間ではオスである。オスは子孫を残すため単独で、或は集団で争うことが宿命づけられているのである。

 争いの根源は脳の中にある。ところが人間には理性があるから争いの感情を制御することができる。両親から受け継いだ遺伝子に刻み込まれている要素により、生まれつき激高し易い性格を持っている男の子でも、その子がその母親の胎内にいるときから、或は乳飲み子のときから正しく訓練されると、その子は自分の感情を制御できるように成長するに違いない。

 『Newton別冊 知りたい! 遺伝のしくみ』という本に次の記事がある。(“”内)
 “遺伝子との関係が明らかにされた性格の一つに「攻撃性」がある。オランダの遺伝学者ハン・ブルーナー博士は、放火やレイプ、露出壁などといった衝動的な行動や攻撃的な行動をとる人が多くいる家系について遺伝子をしらべてみた。するとその家系の中には「MAOA(モノアミノ酸化酵素A)というタンパク質をつくる遺伝子に異常があり、MAOAがまったくつくられない複数の男性がいた。

 MAOAはセロトニンやドーパミンなどの神経伝達物質を酸化する作用をもつ。酸化された神経伝達物質は機能を失いニューロンの外に排出される。
 このMAOAをつくることができないタイプの男性は全員が攻撃的な性格であった。ブルーナー博士らはこの結果から、MAOAが攻撃性という性格に強く関係していると考えた。この研究成果は、1993年に、科学雑誌『Science に紹介された。

 その後さらに研究が進み、攻撃的な人、とくに男性では男性ホルモンやアドレナリンが多く分泌されていることが明らかになっている。”

 男性を特徴づけるY染色体遺伝子について、『意識は傍観者である』(早川書房)には“人間のおよそ半数がこの遺伝子をもっていて残りの半分はもっていないので、もっている半分のほうがはるかに危険である。比べものにはならない。囚人の圧倒的多数がこの遺伝子をもっていて、死刑囚の98.4%がもっている。”とある。要するにオスは生来攻撃的なのである。その攻撃性を抑制する理性は正しく訓練されないとうまく働かないのである。これは個々の国民でも国家や国家連合のような集合組織体でも同様に言えることである。

 なぜ国家において警察や軍が必要なのか?それは個々の国民の生存と幸福のためである。ではなぜ国家同士が同盟を結ぶのか?それは集団で脅威に対抗するためである。ではそのための手段・方法はどうあるべきか?最も望ましいのはそのことが法律に定められていることである。しかし法律が先か、実行が先かという話になると、危急の場合は国民に負託された「賢い人たち」による慎重な手続きと判断によって直ちに実行に移されるべきである。但し、それは最高裁判所が示す基準に必ず従っているものでなければならない。


 「軍事力」・「軍事同盟」という言葉に距離を置きたい人々は、表題の「男・オスの本質」というような言葉を好まないだろう。しかし現実の世界ではその言葉で言い表すことができるようなことが起きている。「テロ国家」「テロ集団」「力による現状変更の試み」「集団的自衛」といった言葉は、まさしく「男・オスの本質」によって起きている状況をオブラートに包むようにして言い表しているにすぎないのである。

2015年6月27日土曜日

人は煩悩の身で生き、その生き様はその人の来世を決める。


宗教によって人智を超える存在に対する信仰は様々である。私は仏教徒でもなく、その宗教の信者でもないが、仏教は「人の生き方に関する学問」であると思っている。そこで仏教における人智を超える存在について、私自身の体験的確信を基に考えてみる。表題は私自身の体験的確信に基づくものであるが、「来世」について人それぞれ百人百様の考え方がある。

仏壇に向かって合掌し、「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)」と唱えながら、「あの世」の父母・弟妹・祖父母・叔父叔母のことを思い浮かべる。このとき、私は私の「この世」の余生において為すべきことを為す決意を新たにする。

私は「南無阿弥陀仏」とは、「人智を超えた宇宙・大自然の動きに逆らうことなく、宇宙・大自然のままに我が身を任せます」と宣言することであると思う。仏壇に明かりを灯し、供え物をし、香を焚き、鐘を鳴らして、その前で「南無阿弥陀仏」と唱えながら、既に「この世」にはいない父母・弟妹・祖父母・叔父叔母のことを思い、次に神棚に明かりを灯して供え物をし、神棚を見上げて遠い数多の見知らぬ先祖たちから今の自分に至る連綿とした血脈のことを思いながら大きく二度、両手の平を叩き合わせ、その後深く頭を下げる。

皆、それぞれの「この世」を煩悩の身で生き、喜怒哀楽・愛憎の日々を送り、無念或いは満足の思い、或いは死に際に自分が今死ぬ意義・目的・意味を再確認し、或いは何の思いも無しにそれぞれの「この世」を去って行くのである。私もやがてその時が来るまで、私の「この世」を同様に煩悩の身で生き、喜怒哀楽し、愛するがしかし誰も憎まず、無念はないが「自分がこの世で為すべきことは為した」と満足して「この世」を去ることだろう。是非そうありたい。

肝心なことは、人はその人生を煩悩の身で生きているということである。しかも、最も確信すべきことは、人はそれぞれの「この世」を過去に生きた誰かの「あの世」として生きているということである。つまり、人は誰かの生まれ替わりとして煩悩の身で人生を送っているということである。煩悩の身であるから、自らを道徳的な「高み」に引き揚げる努力をしないかぎり、幸せな人生を送ることはできない。但し、人に生まれ替わることができる人は善男善女であって、殺人者・誘拐者・盗人などの悪人ではないと言うことである。しかしたとえ極悪人であっても、その後修行し、善人になった者は生前の行いの程度に応じてそれにふさわしい人に生まれ替わるのである。ある人の前世の有り様は、その人の顔かたちとして顕われる。人でも犬でもそうであるが、根性の悪い人や犬の顔相は良くない。逆に根性が良い人の顔相はよいし根性が良い犬の顔相も良い。

上記の「高み」とは、それぞれの人に相応なものである。生まれながらにして手足が短く、五体不満足で他人の手助けなしには生きてゆくことが出来ない人でも、自分が持っている才能を発揮し、人々に感動を与えている人がいる。働き盛りのときに筋萎縮症という重病にかかり、或いは現代の医学では救うことが出来ない重病にかかり余命が少ない人でも、自分が持っている才能を発揮し、人々に感動を与えている人がいる。或いは突然事故に遇い、死んでしまった人でも、その死後その人の生前の善行が称えられ、無名だったその人のことが多くの人々の心に深く印象付けられ、後世に語り継がれる人もいる。国のため、また愛する家族・恋人のため、「靖国神社で会おう」と誓い合って戦場に散っていった兵士たちのことは、戦後70年を経た今でも日本国民の間に語り継がれ、言い継がれ、後の世においても永遠に伝えられてゆくことであろう。

カラフトの電話局で最後の言葉を伝えて死んで逝った電話交換手の女性たちや、沖縄のひめゆり部隊の女性たちも同様である。傍から見てどんなに惨めで可哀そうな人でも、その人の心の持ち方次第で道徳的な「高み」に昇り詰めることは可能である。そのようにして「高み」に上った人は、他の人々に感動を与える。「私は不幸だ、あの人が憎い」と思いながら言いながら日々を送っている人は、周囲の人々を不愉快にする。その人は自分の言動を正当化したくて周囲の人に愚痴をこぼす。そのような人は決してその「高み」に上ることはできないであろう。

地獄極楽は人々の「この世」にあり、また「あの世」にもある。「この世」で「高み」に上った人は「あの世」で更に「高み」に上ることができる可能性がある。しかし、「あの世」においても誰かの「この世」として煩悩の身で生きるのであるから、その人の前世において折角「高み」に上った人でも、現世において地獄の苦しみを味わう可能性がある。現世において悪行を為した人は現世においても何らかの苦しみを必ず受けている。

人を殺め、人を騙し、人に苦しみを与え、人を悲しませた人は、自分が死ぬまでの間に必ず何らかの苦しみを受け、死後も苦しみを受ける。極悪人はその罪の軽重によってその者の「あの世」が定まる。その者の「あの世」は畜生・虫けら・或いはそれ以下の下等な生き物の世界である。私の腕に止まり私の血を吸い、私に叩き殺される蚊もそういう極悪人の誰かの生まれ替わりであるかもしれない。

私は「この世」の実像は宇宙・大自然そのものであると考えている。人間には「意識」があるから、人間はその「意識」を、時間と空間を超越した世界まで働かせることができる。「意識」は時空を超越し、広大無辺に自由自在・融通無碍である。そのような「意識」により、私は宇宙・大自然の中の一存在であり、宇宙・大自然の動きの一部であるが、私自身の力では私がその宇宙・大自然の中の一存在であり、宇宙・大自然の動きの一部であるという状態を変えることも、変えようとすることもできない。その「意識」が霊魂であるとすれば、それは宇宙・大自然の霊魂の一部である。

日本の文化として仏教や神道が根付いているが、日本人が神仏に手を合せるという行為は何であろうか?それは、今自分が「この世」を生きているという自分の存在の意義を確認し、「この世」を生きる目的・役割を確認し、自分が誰かの「あの世」を「この世」として生きていることを確認し、「この世」を去った身内の者を思うことではないだろうか?私は人々がただ習慣的に仏前に合掌し、神前にお参りするだけでは全く意味がないと考えている。そのような人は自分の最期を迎えたときおろおろすることだろう。しかし、そのような人でも、その人が最期を迎えるとき「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)」と唱えることができるならば、その人の心は落ち着き、表情が穏やかになるのではないだろうか?