2017年6月27日火曜日

20170627プライマリーバランス


 男はインターネットで三橋貴明氏の経済講座を視聴している。男はいろいろやることがあって時間を大切にしているので、その経済講座だけを真剣に視聴しているわけではないが、肝心なところだけはメモをとって残している。

プライマリーバランス第一主義を信奉している官僚・学者・政治家たちは自分たちのその信念の根拠をある経済学の学説に置いている。官僚も学者も政治家たちも組織の中にいて、いわゆる「一匹狼」は一人も居ない。

人は誰でも自分が認められたいと願望しているので、その組織の中で頭角を現したいと欲求している。人は誰でも自分への認知を求めている。その学説に疑問を抱くこともなく、時に面従腹背をしてでもその組織の中で頭角を現し、自己実現を図りたいと願う者が出てくる。官僚も学者も政治家たちもこの視点において皆同じである。

人は誰でも他人を差別したいと意識的・無意識的に思っている。その意識が高じると精神のバランスが崩れ、それが言動に顕れ、甚だしい場合には精神病的様相を示す。頭脳明晰で華やかな経歴の持ち主は意識的・無意識的に自分より下位にある立場の者を威圧し、その上国家権力の下部組織の名を語って自分に反抗する者を脅迫する。

しかし今の時代、インターネットは彼らに彼らの思うようにはさせない力を持っている。メディアが健全であれば物事は正しい方向に進行する。逆にメディアが上述の組織に迎合すれば矛盾が増幅され、国民の間に不満が高まる。メディアの責任は重い。

プライマリーバランス黒字化目標に対して、自民党若手国会議員の間で「税収の不足分は国債を発行して積極的に財政投資を行い、その政策に呼応する企業の意欲を喚起し、労働者に対する賃金の底上げを誘導し、結果的に税収を増やすようにするべきである」という考え方に同意する人たちが増えてきたようである。男はその傾向を喜んでいる。

加計学園獣医学部新設問題について男は女房と語り合った。二人の間で一致したことは、「これは従前の規制のなかで既得権益を守りたい側と、そのような規制を緩和して企業の新規事業参加を促し、経済を活性化させ、国民の所得を増やしたいという側(政権)との戦いである」ということである。

この問題では既得権益を守りたい側の官僚の元トップが内部資料を公表し、メディアを味方につけて政府に対抗した。政権担当能力皆無に等しい野党の政治家たちは「政権打倒」の合言葉で団結し、「行政が歪められたのではないか」と大衆に迎合する言葉を大きく掲げ、本来国会で議論すべき事に議論を尽くさず、国家として貴重な時間と金を無駄にした。

「プライマリーバランス黒字化」を金科玉条のように主張する官僚・学者・政治家たちに批判の目を向ける国民は増えつつある。日本のように成熟した国の国民は民度が高い。ある学説を振りかざし、「上から目線」で国民を見下げている官僚・学者・政治家たちは考え方を改めるべきである。



2017年6月20日火曜日

20170620再び『男は』シリーズ


 随筆『男は』シリーズは20141218日を最後に止めていた。しかしこのところある思いあり、今後しばらくこのシリーズを続けることにする。「男は」で始まる散文は自分を客観視した日記のような文学作品でもある。齢70もなって今更「男」はないだろうと、一時主語を「老人」に変えたことがあったが後に再び「男」に戻した。齢80にもなって再び「男」の日記のような文学作品を創作するのはどうかと思われるが、自分の余命は10年前後であろうと思われるこの身、気にすることはあるまい。この文学作品の登場人物は「男」・「女房」であり、その他の人物は括弧無しのアルファベットとし、地名などはローマ字の頭文字を冠した地名とする。

 さて、男は先月満80歳になった。日本では数えの61歳を還暦、数えの70歳を古希、数えの77歳を喜寿、数えの81歳を傘寿、数えの88歳を米寿、数えの90歳を卒寿、数えの99歳を白寿と呼ぶ。従い男は傘寿を無事迎えたことになる。

 男は先月千葉に住む同じ歳の竹馬の友Sと久しぶりに会い、Y港の観光船ロイヤル・ウイングの船上で飲食しながら語り合っていたとき、病で倒れた竹馬の友Tのことが気になった。そこで男はSの隣でTの奥さんに電話を入れた。すると奥さんは「主人は先月24日に亡くなりました」と言う。Tの奥さんはTが男やSに会いたがっていると言いながらいろいろ事情があるらしく男やSを自宅に呼ぼうとはしなかった。Tが死んだ時Tの娘さんが「Aさんに知らせなくては」と言ったそうだが、Tの奥さんは「Aさんには友達の誰某から連絡が行く筈と思っていたから電話しなかった」と言う。Aさんとは男のことである。奥さんは「主人の納骨は〇月〇日です」と言う。男はTの納骨の儀式に出る気にはなれないので「ああそうですか」と言ってそれ以上の会話は打ち切った。

 男はTが入院中三度Tを見舞った。Tは倒産したY証券会社の部長をしていた。Tはかつてその会社で中国関係の仕事をしていたので中国語が得意であった。ある日男がTを見舞ったときTは中国の憲法を原文で読んでいた。Tはボールペンによる絵も描いておりその描画もなかなか上手であった。男はTに「この絵はとてもよく描けているぜ。お前はこんな素晴らしい絵を描けるのだからきちんとしたスケッチブックに描いて遺しておくべきだよ」と言ったことがあった。男はTのことを思い出しつつTの哀れな最期のことを思った。

 在京の竹馬の友は7、8名いたがそのうち4人他界した。その一人がTである。一昨年は同じ歳のFが他界した。FもTも男とSの親友であった。Fは悪性のがんを患っていた。男はSと一緒に入院中のFを見舞ったとき男もSもFの変わりように非常に驚いた。Fはすっかり老け込んでいてその顔にはほとんど生気がなかった。

Fを見舞った後、SはFの奥さんと話したくてその奥さんを近くの寿司屋に誘った。以前Sは自分の内縁の妻Kさん・男と女房・F夫婦を銀座のあるフランス料理店に誘って食事会をしたことがあった。男とSはFの奥さんに会ったのはその時以来のことである。Fはその後10日もしないうちにこの世を去った。Fの葬式はFの家族だけで行われたので男もSもFに最後に会ったのは入院中のFを見舞った時であった。

 男とSの郷里には竹馬の友が沢山住んでいる。皆、小学校・中学校の時の同級生たちである。男は一昨年他界した男の継母が独り暮らしで存命中、毎年頻繁に帰郷していた。そのとき男は竹馬の友だちにも良く会っていた。Sもたまに帰郷していた。男やSが帰郷するたび竹馬の友だちがいつも5、6人以上「こつこつ庵」という一風変わった名前の店に集まって昔の思い出や同級生たちの消息などいろいろ語り合っていた。

 その竹馬の友だちも殆ど皆何か健康上の問題を抱えている。腰が曲がった同級の美女もいる。認知症になってしまった男の幼馴染みのAちゃんもいる。皆一様に齢相応に老けている。Sも心筋梗塞などの病気で何度も入院した身であり歩行もスムーズでない。一見元気そうに見えるのは男だけになった。

先月末、息子たちが男の傘寿を祝ってくれた。53歳の長男と50歳の二男がそれぞれ家に妻子を残し、男と女房を二泊三日の青森旅行に連れて行ってくれた。これは昔の親子四人だけの旅行であった。実はこのような昔の親子四人だけの旅行は二度目である。今回は往復新幹線利用の旅であったが、前回の女房の還暦祝いのときは往復を長男が運転する三泊四日の青森旅行であった。宿泊した宿も前回と同じであった。男と二人の息子たちは宿の一室で酒を酌み交わしながらいろいろ語り合った。

男もいずれそう遠くない時期にこの世を去る身である。男も女房もよく語り合い考え方が一致していることがある。それは「とても幸せなよい人生だった。何時死んでも良い。思い残すようなことは何もない」ということである。「いつ死んでも悔いはない」と言う女房はある意味男の一族の太陽のような存在である。

男と女房・長男夫婦・二男夫婦の6組のとても良い人間関係の中心は正に女房である。男は女房のお蔭でこれまで良い人生を歩むことができたと思っている。男は過去に女房に大変苦労をかけ、女房を悲しませたりしたことも多々あったので、自分の余生の時間のできるだけ多くを女房と同じ空間の中で共有することに決めている。


2017年6月14日水曜日

20170614臨時投稿 「日本海海戦.」

 日本人の精神「利他」は「〇〇ファースト」「自国が中心」という「利己」主義の精神とは全く逆の精神である。「利他」の精神とは他者のため「自己犠牲を厭わない」精神のことである。

 「利他」は人間としてお互い対等な関係を基礎とする。お互い対等な関係とは一方が「上から目線」で他者を見下している関係ではない。長年「人民」が「王朝」に支配されてきた国、現代においてもなおその残滓がある国の「国民」は、無意識の中に近隣の他国を見下している。

 日本国民統合の象徴であられる天皇はこの「利他」の精神を、御身自ら身をもって具体的に体現しておられる。

 この精神の根幹には神武天皇以来綿々として継承されてきた男系の皇統がある。民進党などの国会議員たちの中には、この皇統を「女性宮家・女性天皇・女系天皇」という言葉で断ち切ろうとする勢力がある。日本国民は決してこの男系皇統を失ってはならない。

 日本国はいつの間にか世界第五位の「移民受け入れ大国」になっている(三橋貴明『「移民受け入れ大国」日本の末路』徳間書店)。アメリカ陸軍第442連隊の日系二世たちは、親たちは強制収容所に入れられていたにもかかわらず、祖国アメリカに忠誠を誓い、非常に多くの犠牲を払って偏見と闘い、勝利した。

 日系二世たちが星条旗とアメリカ国歌の下、祖国アメリカに忠誠を尽くしたように、もし日本に危機が迫った時、日本に住む移民たちが天皇を崇敬し、「日の丸」の日本国旗と「君が代」の日本国歌の下、日本に忠誠を尽くしてくれるだろうか?

 民進党の某国会議員は昭和42年(1967年)出版の著書に、皇室について「ああいう一族がいる近くで空気を吸いたくない。天皇とあの一族の気持の悪さ」などと書いている。19年前・17年前の著書でも憲法から天皇制の規定の削除を主張している。某は「あれは30年前の学生時代の頃の発言であった。今は反省している」と釈明している。性格・思想・主義・主張はそう簡単に変わるものではないだろうが、それが変わったのだと信じたい。

 日本国民は、今こそ先人たちの「意識」に共鳴し、日本民族存続のため自分は何を為すべきか考える必要がある。悠久の時間軸のなかで、お互い利益を共有するため「利他」の精神が必要である。

 その一方で、そのような「利益の共有」をしようとはせず、「利己」的に利益を追求しようとし、さらにそのため武力を行使しようとする国に対しては、強力な軍事力をもって対処する精神も必要である。内に大和魂・侍魂を秘めつつ外に向かって「利他」の行動をする。アメリカ日系二世たちも含め、日本の先人たちがそうやってきたお蔭を被って、今の日本があるのである。

 インド・ミャンマー・ベトナム・タイ・カンボジア・フィリッピン・インドネシア・マレーシア・台湾などの国々と日本との良好な関係は、当に先人たちの「利他」の犠牲のお蔭である。アメリカ・ヨーロッパ諸国・大洋州諸国との良好な関係も、人間としてお互い対等な関係を基礎とする「利他」という価値観を共有できているお蔭である。日本は今、ロシアとの間でも「利他」の価値観を共有しようとしている。

2017年6月10日土曜日

2017年6月8日木曜日

2017年6月1日木曜日

20170601『仏説阿弥陀経』について(20)「女性宮家について一言」


このブログのラベル「仏説阿弥陀経」は、私が自分の最期まで仏の道を行く覚悟で掲げるものである。しかし、五濁悪世の現状を観ると私はどうしても一言「それは間違っている」と世間に向かって訴えたくなる。

天皇陛下の譲位を可能にする法案の付帯決議に女性宮家の創設について触れられることになった。皇位継承者が将来居なくなる不安は日本国民大多数が抱いていることであろう。その空気を喜んでいる輩が居る。それは日本国民の団結の拠り所を無くしてしまいたいと考えている連中である。民進党など反権力的政党の政治家の中にそういう輩が居ないか?

政治家は生物学、とりわけ分子遺伝学や社会生物学についてある程度の知識を持つべきである。政治家は古代天皇の皇位継承についても深い知識を持っているべきである。政治家は少なくとも次のことを知った上で皇統について正しい判断を持つべきである。
① Y染色体DNAとミトコンドリアDNAの違い
 ② Y染色体DNAのハプロタイプD1亜型の分布(これは日本列島のみに存在)
 ③ 第26代天皇・継体天皇の皇位継承のいきさつ
 ④ 渡来系弥生人の故郷

『日本人ルーツの謎を解く 縄文人は日本人と韓国人の祖先だった』という本を書いた人がいる。「日本と韓国は隣国同士であり常識的に考えてDNAの違いはない」と主張する人がいる。小沢一郎氏はかつて韓国の首都ソウルの大学で「天皇の祖先は韓国人であった」と言う趣旨の講演を行ったことが報じられたことがあった。渡来系弥生人が朝鮮半島出身であると思っている人がかなり居ると思われるが、渡来系弥生人の故郷は長江中流域である。

日本では古代に世界でいち早く奴隷(奴婢)制度を廃止した国である。古代日本でも天皇や豪族は正妻以外に多数の女性を妻にして多くの子孫を残している。奴婢との間にできた子どもを良民にするという定めもあった。持統天皇4年(690年)に奴婢の売買が禁止された。いろいろな事情で自ら奴婢になった人も現れたが、平安時代中期の寛平の治から延喜の治の間に奴婢廃止令が出されている。

日本には非常に多くの帰化人がいたが奈良・平安時代に彼らは姓を与えられた。特に戦国時代以降彼らは主君から名字を与えられ、幾つもの家に分れて全国に散らばった。皆完全な日本人になって今日に至っている。

日本では労働人口の不足から外国人の労働移民を多く受け入れようとしているが、天皇を崇敬しない外国人を決して日本国民にしてはならない。日本国民の団結のためには、男系の皇統が是非必要である。継体天皇の例に倣って、これまで綿々として続いてきた男系皇統を決して絶やさない工夫を是非考えるべきある。

戦後、皇籍を離脱した元皇族の中から天皇のY染色体DNAを有する男性に宮家と養子縁組をして貰うなどして、何としてでも男系の皇統を維持しなければならない。


2017年5月12日金曜日

20170512『仏説阿弥陀経』について(19)


大多数の人々が下記に列挙する事項を認めれば、世の中は平和になるだろう。人々は自分が人間であるがゆえに自分が理想とする姿を神や仏に求める。一部の著名な人々や自分がそのような著名な人になりたがっている人は、人々が五濁悪世から脱するための最も理想的な方法を描いてそれを正義であるとし、他の人々にそのことを語り、自分の主張に対する同調者を出来るだけ多く自分の周りに集めようとする。

自分の主張に同調する人を出来るだけ多く自分の周りに集めるための最も効果的な方法は何か?それはマスメディアを利用することである。マスメディアを巧みに利用しているメディア出身の知事がいる。twitterfacebookなどを利用することにより、自分の主張を直接他の人々に訴えることができる。その上で自分の主張をマスメディアにも取り上げてもらうようにすれば、更に効果的に自分の主張を拡散させることができるに違いない。

しかし人はそれぞれ個人として自分自身を保存しようとする。人は自分の欲心を無くすことができないから、自分が最も利益を得るように行動する。人は仏陀に成らぬかぎり五濁悪世の中に生き続けなければならない。野獣も自己保存の行動をする。自己保存の面で同じでも、人は「自分は人間であって野獣とは絶対違う」、と思いたがっている存在である。

世界の平和を達成するため、次のことは出来るだけ多くの人々が認めるべき事項である。
a 国家は人間性の面を持っている野獣である。
b 世界の平和は武力を基本する総合的な力によって維持することが出来る。
c 武力以外に総合されるべき力の要素は次の諸力である。
    外交力・情報力・経済力・科学力・技術力・文化力・スポーツ力・団結力など。
d 価値観を共有する国家同士が同盟し、団結することにより、その同盟国個々が有する力の総和以上の総合力を、同盟国同士の各々がそれぞれ持つことができる。
 e  日本という国家の団結力の源泉は2000年以上にわたり綿々と維持されて来た男系の皇統にある。ミトコンドリア遺伝の女系では絶対ダメである。

分子遺伝学的にも日本人は世界で最も混血した人種である。NHKのEテレ『サイエンスZERO』で、日本人の遺伝子はアジアの中で特異であり、中国人・韓国人の遺伝子と大きくかけ離れていることが紹介されていた。【関連:20160413「仏教」をキーワードに思いつくまま綴る(18)】

日本は単一民族国家である。アイヌの人は「民族」ではない。国連の人権差別撤廃委員会が琉球・沖縄の人々を先住民族とする勧告文を出したことは、日本民族の分断を図る某国の陰謀であるに違いない。分子遺伝学的にアイヌの人々も旧琉球の人々も日本人と全く同じである。皆、「日本民族・大和民族」の一員である。アイヌの人々と旧琉球の人々のY染色体ハプログループのD1b系統は日本本土の人々より多い。それは北海道や沖縄では混血の度合いが少なかったため、縄文人の遺伝子が色濃く受け継がれてきたからである。

Y染色体ハプログループのD1b系統は日本人だけに存在する系統であり、台湾・中国・韓国には全く存在していない。「日本と韓国はよく似た者同士」と言われるが、人種的には日本人と韓国・北朝鮮人は全く別種である。

古代中国の歴史書に書かれている「倭人」は、縄文人と渡来系弥生人の混血種・古墳時代人が作った「大和(やまと)の国」の人々のことである。古代「倭人」たちは朝鮮半島に進出していたが、朝鮮半島の動乱時に扶余系である高句麗人・百済人たちとともに日本に渡来してきた。「倭人」たちにとって自分たちは「渡来」ではなく本国への「引き揚げ」であるが、当時の朝廷はその「倭人」たちも「渡来・帰化」扱いにしていた。

古代における朝鮮半島における動乱で、高句麗人たちの一部は当時の唐(中国)によって強制移住させられた。百済人・高句麗人・新羅人の一部は日本に移住した。彼らの遺伝子は現在の朝鮮半島の人々の間に少なからず残っている筈である。近代になって高麗(こうれい)人たちは李氏朝鮮における混乱を逃れて清(当時の中国)の領土であった沿海州に移住した。日露戦争の結果彼らはロシアによって自分の土地を奪われた。満州事変勃発後彼らは日本のスパイであるとされ、ソ連によって中央アジアに強制移住させられた。日本人は16世紀に豊臣秀吉の軍隊が、20世紀に日本軍とソ連との軍事衝突により朝鮮人を苦しめたという爪痕を残している。これが日本人に対する韓国人の恨みの源になっていると考えられる。

長い鎖国を経て近代国家になった日本は、並み居る列強の国家群に伍して生き抜かなければならなかった。日本という国家も正に「人間性の面を持っている野獣」のようであった。日本がアジア諸国を欧米の植民から解放するという大義のもとに遂行した大東亜戦争(戦後アメリカによって「太平洋戦争」と呼称を変えさせられた)終了後、日本国は二度と軍事強国にならぬように、憲法前文においても第9条においも「戦争放棄」が記述された憲法をアメリカによって押し付けられた。その結果日本は専守防衛に徹する平和国家になった。

しかし日本を取り巻く現実の世界は依然として「人間性の面を持っている野獣」のような国家ばかりが存在している。国家の「人間性の面」だけを見て平和を維持しようとすることは極めて困難である。日本人は上述aeのことを良く認識しなければならないのである。


2017年5月4日木曜日

20170504『仏説阿弥陀経』について(18)


昨日は憲法記念日であった。安倍首相は3年後、日本国憲法を改正し、第9条に第3項を追加し、自衛隊を明記すると宣言した。日本国憲法前文には「日本国民は、・・(中略)・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と書かれている。しかし現実の世界は、東條元首相の遺言にあるとおり、「国家から欲心を除くことは不可能なことである。されば世界より今後も戦争を除くことは不可能」な状況にある。個々の人間は人間性にあふれ、お互い愛し合うことを願うが、その個々の人間の集合体である国家(日本国を含む)は、「人間性の要素をもつ野獣」と変わらない。
                 
日本が「アジア諸国を植民地から開放する」という大義の下、耐えきれないほどの犠牲を払って戦った大東亜戦争(戦後「太平洋戦争」と呼称が変更された)の戦陣に散華した方々が「悪いことをした人たち」のように思われ続けていることは真に悲しいことである。

いわゆる「従軍慰安婦」問題や、「南京大虐殺」問題は、「人間性の要素をもつ野獣」である国々がそれぞれ自己保存の本能に動かされているため未来永劫解消されることはないであろう。国際社会における「五濁悪世」は絶対無くならないであろう。

今を生きる日本人は、「自分たちが何者であり、何処から来て何処に行こうとしているのか」よく自覚する必要がある。前の戦争で戦った人たちが教養として身につけていた萬葉集や古事記・日本書記などに書かれていることを、我々日本人は学び直す必要がある。

以下のことは遺跡・史書・科学的知見に基づく真実である。
 ① 日本の歴史書『日本書記』『続日本紀』の記述にある「高麗(こま)」は「高句麗(こうくり)」のことである。同書に記述されている高麗人の官位は高句麗の官位である。
  岩波文庫『日本書記』(二)の「補注(巻第九)の九」の項に、高麗を日本でコマとよむことになったいきさつ、及び「コマ」の漢字に「狛」が使われたいきさつ、について記述されている。
 ② 中国と北朝鮮の間の国境(鴨緑江)近くの中国吉林省通化市に建っている好太王碑(こうたいおうひ)(「広開土王碑(こうかいどおうひ)」とも言われる)石碑に刻まれている文言の一部。好太王は高句麗の第19代の王である。また「辛卯年」は西暦391年である。
  百殘新羅舊是属民由來朝貢而倭以辛卯年來渡海破百殘■■新羅以為臣民」
  ■■は「加羅(から)」と判読されている。「倭」は日本、「百殘」は「百済」のことである。日本は海を渡って百済・加羅・新羅の人々を臣民にしたのである。
 ③ 高句麗と百済の支配層は扶余(ふよ)(現在の中国東北部にかつて存在していた民族・国家)の出であり、中国の清王朝を支配した満州族と同じ女真族である。中国の歴史書には、高句麗と百済で使われていた言語は似ている、と書かれている。一部の研究者は、高句麗語は朝鮮語とは遠く日本語には近い、と指摘している。
 ④ 高句麗は西暦663年の白村江の戦いで百済が滅びて孤立し、西暦668年に中国唐王朝により滅ぼされ、高句麗の北部の民は現在の北朝鮮北西部に隣接する中国遼寧省朝陽県に強制移住させられた。高句麗に遺った民は高句麗の再興を図ったが全て失敗した。高句麗の遺民の一部は日本に渡って来た。
  日本には地名で「狛江」「高麗」「巨摩」などは渡来帰化した「高麗人(こまびと)」に由来するものである。
 ⑤ 高句麗に関する歴史認識について、高句麗が現在の韓国・北朝鮮の歴史と連続するものであるかどうかについて論争がある。(Wikipedia「高句麗論争」)
 ⑥ 『隋書倭國傳』の一部。
  「新羅・百濟皆以倭爲大國多珍物、並敬仰之、恆通使往來。」(新羅・百濟、皆倭を以て大國にして珍物多しと爲し、並びに之を敬仰し恆(つね)に通使・往來す。)
 ⑦ 『日本書記』雄略天皇八年春二月(はるきさらぎ)の条の一部。
  新羅王・・(中略)・・乃使人於任那王曰、高麗王征伐我國・・(中略)・・伏請救於日本府行軍元帥等」(高麗王・・(中略)・・乃(すなは)ち人(ひと)を任那(みまな)の王(こきし)のもとに使(や)りて曰(い)はく、「高麗の王、我(わ)が國(くに)を征伐(う)つ。・・(中略)・・伏(ふ)して救(すく)いを日本府(やまとのみこともち)の行軍元帥等(いくさのきみたち)に請(こ)ひまつる」

 万葉の時代、「やまと言葉」は漢字の持つ意味の部分を無視して、その音や訓を使って仮名としての漢字が用いられていた。日本書記が編纂された時期には、「やまと言葉」を中国語の漢字の意味に当てはめた漢字が用いられた。上記括弧( )内の文字は「やまと言葉」である。

われわれ日本人は「やまと言葉」を話していた人々の子孫である。彼らは縄文人と渡来系弥生人が混血した人々であった。縄文人はホモサピエンスがアフリカを出立した早い時期にユーラシア大陸でヨーロッパ系の人々と分岐した人々で、北海道から沖縄までの日本列島でしか生き残ることができなかった人々である。渡来系弥生人は長江中流域からポートピープルとなって直接または遼東半島→朝鮮半島南部経由で日本に渡ってきた人々である。

北朝鮮は核・ミサイル兵器をちらつかせて、日本に脅威を与えている。もしかして北朝鮮には扶余系・女真族の人々の血が濃く混じっている人々が多いのかもしれない。歴史は繰り返しているように見える。私は、我々日本人は自分たちのルーツを知り、自分たちの歴史を知ることによって、国際社会の中で生き残ることができる、と思っている。


2017年4月27日木曜日

20170427『仏説阿弥陀経』について(17)


日本で仏教を広めるため最初に尽力されたのは聖徳太子である。聖徳太子は二十歳のとき推古天皇の御世(西暦593年〜628年)の皇太子で、厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)という名前であった。『日本書記』には厩戸皇子に「録(まつりごと)摂政(ふさねつかさど)らしむ。万機(よろずのまつりごと)を以て悉(ことごとく)に委(ゆだ)ぬ」とあり、厩戸皇子は推古天皇に代わって政治を行っていた。『日本書記』には、厩戸皇子は「内教(ほとけのみのり)を高麗(こま)の僧(ほふし)慧慈(ゑじ)に習(なら)」とある。

『日本書記』には推古天皇の三年(西暦596年)に「高麗(こま)の僧(ほふし)慧慈(ゑじ)帰化(まうおもぶ)く。則(すなはち)皇太子、師(のりのし)としたまふ」とある。なぜ、元正天皇の御世・養老四年(西暦720年)五月に完成した日本の正史『日本書記』の記述が「高句麗」でなく「高麗」なのか謎である。

聖徳太子が師事した慧慈は仏教の真髄を正しく把握し、正しい仏教を習得した高僧であった。聖徳太子は慧慈に八年間師事して仏教の真髄を学び、これによって仏教的な世界観や人生観を確立し、仏教の正しい信仰に徹することが出来た。(前掲『仏教要語の基礎知識』による。)

『日本書記』には高麗と書かれているが高麗の建国は10世紀であるから私は高句麗が正しいのではないかと考える。高句麗は朝鮮半島の北部にあった国である。高句麗と百済の支配層は同族であり、現在の中国東北部(満州)にあった国・扶余の出身であったと言われている。百済は西暦663年に滅び『日本書記』には合計3,100人余りの百済人が日本に渡って来て、現在の大阪・滋賀・愛知・岐阜あたり(古代で「東国」と呼ばれた地域)に居住したことが書かれている。当時、百済には「倭人」と呼ばれた日本人も住んでいたようで、上記3,100人余りの中には倭人も含まれていたかもしれない。

高句麗は西暦663年の白村江の戦いで百済が滅びて孤立し、西暦668年に中国唐王朝により滅ぼされ、高句麗の北部の民は現在の北朝鮮北西部に隣接する中国遼寧省朝陽県に強制移住させられた。高句麗に遺った民は高句麗の再興を図ったが全て失敗した。高句麗の遺民の一部は日本に渡って来た。『続日本紀』によれば、元正天皇の御世の霊亀二年(西暦716年)に、現在の静岡・神奈川・千葉・茨城・栃木各県に居住していた高句麗遺民1799人を現在の埼玉県北部に「移住させ、初めて高麗郡を置いた」とある。

日本には高句麗滅亡後新羅からも僧侶など人々が渡って来ている。『続日本紀』に天平宝字二年(西暦758年)に「帰化した新羅僧32人・尼2人・男19人・女21人を武蔵国の未開発部に移住させた。ここに初めて新羅郡を設置した」とある。新羅郡は後に新座郡と改められた。

『続日本紀』には、孝謙天皇の御世、天平宝字元年(西暦757年)に「高麗・百済・新羅の人たちで以前より聖化(天皇の徳化)を慕って来朝し、わが国の風俗になじみ、姓(氏)を給わることを望む者は、すべてそれを許し認めよ」とある。ここでも「高麗」となっている。

千数百年も経てば2n(注:nは世代数、例えば一世代を25年とすれば100年で四世代、千年で40 世代となる)で拡散するので、縄文人の遺伝子を基層としている現在の日本人の遺伝子の一部に日本に渡って来た百済人・高句麗人・新羅人の遺伝子が含まれていることは間違いないだろう。皆、同じ母から生まれた「同胞」になっている。

江戸末期の漢学者・歴史家・詩人・書画家・頼山陽は、その作詞『百済を復す』の中で、「唐と吾と孰(いず)れか得失 忠義の孫子(そんし)海を踏みて来り 長く王臣と為(な)りて王室を護る」と詠っている。この詩の「王室」は「皇室」のことである。日本が42,000人の兵と800隻余りの軍船を送り、百済の兵5,000人と共に当時の中国・唐と朝鮮の新羅の連合軍と戦った西暦663年の白村江の戦いに敗れ、滅ぼされた百済から日本に渡ってきた人々は日本の朝廷に貢献したことが『日本書記』に記述されている。

余談であるが、Wikipediaによれば“『扶桑略記』には寛平6年(884年)の9月(旧暦)に新羅船45艘は対馬を襲ったが、日本は大宰府の奮戦で、これを迎撃して危機を脱した。合戦後の捕虜となった新羅人の賢春は尋問で、前年来の不作により「人民飢苦」の状態が続き、新羅では「王城不安」だったと答えている”とある。

ところで百済・高句麗の支配層は現在の中国東北部(満州)にあった国・扶余の出身である。日清戦争の時の「清」は女真族が建てた当時の中国であり、日清戦争後日本が進出した満州も元々女真族が建てた地域であった。私は現在の東アジアの状況を観ずると国際社会の中の「宿縁」を感じざるを得ない。

さて、仏教の経典が釈尊没後どのような過程を経て成立したかということはWikipediaに示されている。釈尊(釈迦牟尼 Sākyamuni サークヤ族の聖者)がこの世を去られて直ぐ、「僧伽、サンガ」と呼ばれる出家者集団で個人個人が釈尊から聞いた釈尊の言葉を集める作業(結集)が、マハーカッサパ(魔訶迦葉尊者)が中心になって行われた。聖徳太子が高句麗の高僧から学んだ仏教のルーツはこの結集にあるのである。