2016年9月1日木曜日

20160901慶長元年(1596年)の豊後国大地震とその後のキリスト教徒弾圧


 今日は「防災の日」である。慶長元年(1596年)に豊後国府内(現在の大分市中心部)で起きた大地震について、イエス会のルイジ・フロア(フロイス)神父の報告が『大分縣史』に記載されている。これは、「イエス会のローマ人フランチェスコ・メルカーティ神父によってイタリア語に翻訳」と注記がある。以下括弧(“”)で引用する。

 “・・(前略)・・府内の近くに三哩離れたオキノファマ(沖ノ浜)と呼ばれる大きな村があります。多くの船の寄港地であり、揚陸地です。この立派な男は、この地名にちなんでオキノファマのビアジオと呼ばれ、豊後では良く知られていますが、それはこの男の家が各地から来る多くの人たちの収容所になっているからであります。

 この男の言うには、夜間突然あの場所に風を伴わず海から波が押しよせて来ました。非常に大きな音と騒音と、偉大な力で、その波は町の上に七ブラッチョ(一ブラッチョは〇、五九四米)以上も立ち上がりました。

 その後、高い古木の頂から見えたところによると、大変気狂いじみた激烈さで、海は一哩も一哩半も陸地に這入りこみ、波がひいたとき、オキノファアマの町の何物も残しませんでした。その町の外にいた人々は助かったが、あの地獄の巨人がつかまえた人々は、すべてのみこまれ、伴れ去られました。男、女、子供、老人、牡牛、牝牛、家その他無限の品物が持ち去られ、あらゆる物が、そこになかった如く、深い海に代えられました。・・(中略)・・同じ海岸のオキノファアマの近くの四つの村、即ちハマオクイ・エクロ・フィンゴ・カフチラナロ及びサンガノフェチクイの一部は同様に水中に没したと言われています。・・(中略)・・

 これら港の中でオキノファマには非常に多くの船隊が泊っていました。その大部分はタイコウ(太閤)のもので、これらの船は王国(現在彼の持っている)の徴税のため豊後に来ていました。これらの船の多くは既に積荷を終わって出帆の時を待っていましたし、他の船は積荷を始めていました。その外多くの商人の小舟がいましたが、これらの船についてピアジオは、確かに聞いたこととして次のように断定しています。即ちこれらの船は一隻さえも助からず、同一場所で砕け、全部が沈んでしまったと。・・(後略)・・”

 これは今から420年前、今の大分市中心部で四つの村が海底に没してしまった南海トラフ巨大地震が発生したときの史料である。巨大地震が近未来に起きる可能性は大である。九州で頻発している地震はその前兆ではないのか?阿蘇カルデラ噴火のような想像を絶する超巨大地震が起きないとも限らない。「想定外」は絶対禁句である。

 当時、豊後国はキリスト教徒であった大友宗麟によって統治されていた。キリスト教徒たちは仏教の僧侶や仏教を信じる人々から大きな恥辱を受けていた。後に江戸前期の幕府の政策よって豊後国内のキリスト教徒たちは非常に大きな迫害を受け、特に大分の葛木では召し捕られた者92名中27名が死罪、長崎の牢獄で死んだ者6名、同牢獄に留め置かれた者5名、日田の牢獄で死んだ者18名、同牢獄に留め置かれた者2名、江戸に送られた者2名、放免32名、内病死6名、という大変悲惨な事が起きていた。

そのことについては次回に書くが、今から350 年ほどから400年ほど前、大分で起きたことは、今日の大分県人の気質に何らかの影響を残しているに違いない。「意識と何であるか」ということは科学的には未解明である。しかし、私は「意識は時空を超えて広大無辺・融通無碍・自由自在な存在」であると考えているので、当時生きた人々の意識は何らかの形で今を生きている人々に必ず作用している、と考えている。

上記史料では“・・(前略)・・フランチェスコ(宗麟)王は若し彼等がキリスト教徒になったとしたら、彼にとり大変な喜びであり、また彼自身、彼等の代父になったであろうと述べました。そういうことで、一方僧侶たちは彼等を迫害し、他方同じ町の人々は・・(中略)・・道路にわれわれの仲間が姿を現す度毎に、突然大声でののしり始め、神父たちに恥辱を与えました。その後キリスト教徒になったフランチェスコ王から彼等のこんなにひどい、邪悪なやり方を激しく禁止されていたが、何れにしてもキリスト教徒及び協会に対して彼等が持っていた反感を取去ることは出来ませんでした。

時に、夕方われわれの家に火をつけたり、また家に矢を射たり、また教会や家に石を投げました。その上、協会に向かって死人や子供の手足を投げました。その際に坊主たちは公然と、われわれが人肉を食べるため人間を殺しているのだと宣伝し、われわれに反対するにせの証人を立てました。そのため、数年に亘ってわれわれの家の周囲を夜番する必要がありました。・・(中略)・・

ファカタ(高田)の地においては四千人以上のキリスト教徒がおり、善良な老人イオランが殉教したところですが、この地震のとき大河を通って、海が三哩も這入りこみました。・・(後略)・・”


当時豊後国(大分県)内にはかなりの数のキリスト教徒が居たことが推察される。為政者側から見れば、キリスト教徒は体内のがん細胞のようなものであったであろう。当時のキリスト教徒たちに対する非常に厳しい弾圧は現在の日本にどういう影を落としているのだろうか?