2016年9月4日日曜日

20160904「真正保守派」がめざすべきもの


 マスコミ上「真正保守派」という言葉は見当たらない。「極右」「中道右派」などの言葉はたまに見かける。悠久の歴史を持つわれわれ日本民族が目指すべきところは、我々の心の深奥に根付いている「われわれ日本人・日本民族」というものである。即ち、「われわれ日本人・日本民族のアイデンティティ」は何か、心理学でいうところの「セルフ(自己)」は何かということである。それは「反日本的」に見える左翼の言論者でも同じであろう。人は、自分が何ものであり、何を目指すべきか、ということをしっかり自分の心の深奥に見据えてないと不安定なものである。不安定であるから、特に右翼の人々のみならず左翼の人々も、声を大にして世間に自己主張しているのである。

 幕末の日本人には明確な目標があった。それは、日本はシナ(中国)や東南アジア諸国のようになってはならない、というものであった。黒船が日本人を目覚めさせたのである。しかし、戦争に敗れ、悲惨な戦後を送った日本人は長年そのような目標を持っていなかった。アメリカの対日政策により、言わば「アメリカ旦那にすがりつく妾日本」の構図に安んじていた。これは、竹田恒泰氏の『古事記完全講義』(学研)に書かれているように、日本人は「茹でガエル症候群」という病気に陥ってしまっているからである。アメリカは日本を氏の言うように「百年殺しの刑」にかけていたのである。今はアメリカも日本に一目置いているように見えるが、しかし、国連憲章には「敵国条項」という一項があり、日本は依然として敵国の扱いを受けたままである。

 こういう日本人・日本民族のアイデンティティに深く関わる国際法上の規定のことを知らず、或いは知っていても知らぬふりをしている人たちが左翼・左派的な言動をし、日本人・日本民族のアイデンティティを危うくしている。「天皇制」「女系天皇」「平和憲法」などのスローガン的文言に人々は惑わされている

 831日付の朝日新聞朝刊には『改正憲法212項(自民党案)は、現憲法の「言論の自由」を否定!』と大見出しの意見広告が載っている。これには「信教の自由」は触れていないが、21五条2項が「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにこれを目的として結社することは、認められない。」と規定していることに反発している。

 また同じ朝日新聞の読者の投稿欄には「国歌斉唱 思想の自由侵すな」という題では「私はクリスチャンであり、天皇を賛美する歌詞の君が代を歌えません」、とある牧師が投稿している。

 両方とも「自由」について、誤った観念を持っているとしか私には思えない。江戸時代にも「公儀」が重要視された。これは為政者のための「儀」ではない。大多数の利益のための「儀」である。「自由」は為政者のためのものではない。「最大多数の最大幸福」が図られるための「儀」、即ち「公」の「儀」である。江戸時代、海外から持ち込まれたキリスト教の文化は、当時の日本の社会の安定を脅かすものであった。それは「公儀」により手荒く排除された。キリスト教徒は自ら喜んで死んで逝ったというが、記録を読むとそれはとても悲惨なことであった。

 現代において「公儀」のため少数者が不当な扱いを受けてはならないことは当然である。少数者が不当な扱いを受けることがないような仕組みは当然必要である。憲法ではその仕組みについて記述されなければならない。それについては国内で徹底的に議論されなければならない。自分たちが選ぶ為政者に「公儀」のことを任せきりにするようなことが決してあってはならない。

 国歌『君が代』が「天皇を賛美」するものでは決してない。天皇は古来「おおきみ」であって「きみ」ではない。「きみ」は「あなた」という第三人称の名である。これは国民統合の象徴である天皇を含む日本国民すべてである。この認識が広く一般国民の間で共有されるような教育や啓発活動が必要である。

 近時日本共産党のように「革命」の意図を隠した文言を並べ立てた喧伝活動や、朝日新聞・毎日新聞のように事実の背後の事を極力隠した報道が見られるが、一方、SNSや月刊誌を通じてシナ(中国)や朝鮮(韓国・北朝鮮)の対日活動を取り上げる愛国心に満ちた情報も発信されている。それはそれぞれの「志」の表現・活動である。

こういうことが全く制限を受けず自由に行われることが最も重要である。そのような「志」を持って現代の「志士」たちが大いに活動するなかで、最大多数の人々が同意する「儀」が現代の「公儀」である。新聞には権力に対する批判精神が大いに必要であるが、この「公儀」のことにも目を向け、積極的に取材し、報道すべきである。そのようなことがすんなりと行われるような社会にするため「原則」のようなものを確立し、何か文言にして宣言され、全日本人・日本民族が共有するためにはどうすべきか?

成熟した日本の社会では、かつて行われたキリスト教徒弾圧のようなことが決して起きない文化が定着している。このような認識が日本国民の間で共有されるよう、日本国家の中に一システムとしてその仕組みが組み込まれ、教育・啓発活動が行われるようになることが望まれる。これこそが左派でも右派でも中道派でもない真正保守派の目指すべきところであるのではないのだろうか?