2016年9月9日金曜日

20160909「共に生きる」と「上から目線」と


 今朝の某新聞の朝刊に某コラムニストの記事がでていた。その中に「国民も理解力が必要」という小見出しがあった。彼は「Jリーグのファンが戦術を見るようになって日本のサッカーのレベルは上がってきたが、残念ながら政治に関しては退歩している気がする」と言う。彼が本当にそう思っているからであろうか、彼は、野党は“「集団的自衛権はいらないよ」と言うだけでもいい”、“この反対が実を結ぶんだ”、“『アベノミクス』という軽薄なキャッチフレーズを言う人が勝っている”と言っている。

 「国民も理解力が必要」という言葉は上から目線の言葉である。そのコラムニストも国民の一人である。日本のサッカーのレベルが上がったのはJリーグのファンが戦術を見るようになったからだけではないだろう。政治の事に関していえば、マスメディアで発信されていることを大多数の国民は理解し、何が正しいか判断している。その結果が国政・地方行政選挙の結果に表れるのである。

 NHKの朝のドラマ『とと姉ちゃん』で商品テストの結果の公表が及ぼす影響についてある雑誌のジャーナリストが疑問を抱き、大新聞を巻き込んでその商品テストを行い専門誌に公表する行為を公平でないと思い、その専門誌を追求している場面があった。

 その商品テストを行っている専門誌の側は、自分たちが行っていることは正義であると確信して後に引かない構えである。そのドラマの一視聴者から見れば、その専門誌側は商品テストをされている製造者側と対立し、「自分たちの味方は一般消費者である」との信念で行動しているという構図に見える。其処にはその専門誌側と製造者側が「共に生きる」という観念はない。もし共生の気持があれば、商品テストの結果の公表にあたって、製造者側に対する思いやりのメッセージを添えるだろう。やはり此処にも「自分たちは正しい」という思い込みから生じる「上から目線」の観念がある。

 情報通信技術が高度に発達しつつある日本では、行政府の長や議会の議員などを選挙で選ぶとき、政党や団体などの組織体の意思とは別に個々の人々の意思がブログやメーリングリストやメールマガジンやWEBページやfacebookLINEや電子メールをなど通じて拡散し、その「大きな意向」が反映される。この「大きな意向」とは現代における「大義」であり、「公儀」である。真正保守の理念は其処にある。

 一方で、団体や組織は自己防衛のため情報公開を恐れ、巧妙な言葉・慇懃無礼・恫喝・脅しによって近づく者を遠ざけようとしている。しかし、上述の意味での「大義」「公儀」には敵わない。「日本会議」を取材したあるジャーナリストは「日本会議」側に警戒され、十分な取材ができなかったようであるが、彼が書いた本には「日本会議」に対する批判の文言が沢山書かれている。「日本会議」側にも問題があるが、「日本会議」を恐れ、「日本会議」を疑う側にも問題がある。

日本の現状に関して、上述の意味での「大義」「公儀」はどちらの側により多くあるのであろうか?私は「日本会議」の側にあると思っている。しかし私は勿論左翼の者ではないが右翼の者でも中道・中間派の者でもない。ただ、「日本会議」側も情報公開の仕方を改善し、自分の体質について不安を持たれないようにした方が良い、と思っている。

情報公開はメディアを十分活用した「双方向の対話」により行われれば、その効果は非常に大きいと思う。野球やサッカーや相撲などではそういうことが行われているから、人々の関心が高いのだろう。

日本の領土・領海・領空の防衛に関しても、そのような「双方向の対話」による情報公開が活発になれば、日本国民は今何を、どのようにしなければならないか、明確な意思を表明するようになるだろう。防衛省は自衛隊の活動状況を動画で盛んに公開しているが、高度に進化・発達しつつある情報通信技術をフルに活用して、国民と間で「双方向の対話」を活発に行うようにするべきである。

情報通信技術が高度に発達・進化しつつあるわが国にいては、今やジャーナリストやTVディレクターや言論者たちが「上から目線」でものを言えば世の中が変わるような時代ではなくなって来ているのではないだろうか?「自由と民主主義」が保障され、情報通信技術が高度に発達・進化しつつあるわが国にいては、メディアは「上から目線」ではなく、「普段あまりものを言わぬ一般大衆」と「共に生きる」ようになって欲しい。

わが国の周辺は「一国主義・利己主義」に満ち、火の粉がわが国に降りかかってきている。わが領土・領海・領空を守り、わが国に対して現に行われているサイバー攻撃・思想的攻撃・心理戦的攻撃を防ぎ、わが国の安全・平和・繁栄を保つことは、「普段あまりものを言わぬ一般大衆」の心の奥からの願望である。

私は思う。“その「願望」に応えるとともに「自由と民主主義」を守り抜くことはメディアの非常に大きな、大変重要な役割である。これこそがメディアが「普段あまりものを言わぬ一般大衆」と「共に生きる」ことである。メディアは決して左翼や右翼の一方に加担してはならぬ。今や「普段あまりものを言わぬ一般大衆」は、以前のようにメディアの「上から目線」のメッセージには振り回されなくなってきている”と。