2016年9月3日土曜日

20160903慶長元年(1596年)の豊後国大地震とその後のキリスト教徒弾圧(続き)


 秀吉においては、キリスト教徒に対する弾圧は左程厳しいものでは無かった。ただ彼自身も当時のポルトガルが日本を侵略する意図をもっていたことを察知し、逆にポルトガルに対し「今や大明国を征せんと欲す。(中略)来春九州肥前に営すべく、時日を移さず、降幡(こうはん)を偃(ふ)せて伏(降伏)すべし。若し匍匐(ほふく)膝行(ぐずぐずして)遅延するに於いては、速やかに征伐を加ふべきや、必(ひつ)せり。悔ゆる勿れ・・・」という文言の降伏勧告状を突き付けて、ポルトガルが軍艦2隻を提供してくれれば自分はそれを使って自分が明に侵攻してやろう、と提案している。(関連:「秀吉の朝鮮出兵の真実」:

 その後の日本においてキリスト教の浸透は非常に根強いものがあった。大友宗麟、大村純忠、有馬晴信、結城忠正、高山友照および高山右近親子、小西行長、蒲生氏郷らキリシタン大名が増えた。過酷な徴税に反発して農民やキリシタン大名の家臣であった元武士たちが団結し、当時の地方行政府であった藩庁(島原城・富岡城)に対して武装ほう起した。幕府は島原藩主松倉勝家を処罰し、斬首の刑に処したが、反乱軍37千人は廃城となっていた原城に立て籠り、幕府軍と戦った。しかし、反乱軍は幕府軍に敗れ、内通者・脱出逃亡者・戦斗死者を除いた全員が処刑された。

 これを契機に幕府は鎖国政策をとるようになった。一方で、同じキリスト教徒でもプロテスタントの国・オランダ一国に対しては交易の門戸を開いていた。これが幕末まで続いた。鎖国政策の中、幕府は国内のバテレンというカトリックのキリスト教徒たちを絶滅させる政策を執った。その結果、特に今の大分県でバテレンの摘発が徹底的に行われ、官憲による拷問や踏み絵など様々な方法によりキリスト教への信仰を止めさせる試みが為された。しかしそれでもキリストへの信仰を棄てず、自ら殉教死を受け入れた老若男女が多かった。

大友宗麟(クリスチャン名:ドン・フランチェスコ)が統治していた豊後国(今の大分県)には非常に多くのカトリック系キリスト教徒がいた。特に葛木地区では領主・葛木孫三郎(又は葛木半笑)は徳が高く学問に優れていたので、その影響を受けてキリスト教徒になった者が多かった。大友家没落後孫三郎は失墜し、その妻と共に餓死の刑を受け、その後大分の海岸で焼き殺された。代々領主であった葛木氏は没落した。

 『大分県史』に次のことが記載されている。以下に二つの処断について、要点のみ簡潔に示す。なお、長崎送りの他、現地の葛木で処刑された者も多く、葛木には「獄門原」という地名とキリシタン公園がある。官憲による追及を逃れて、長崎などに逃亡した者もいたようで、その事実を伺わせる文言が『大分県史』に書かれている。

秀吉による小藩分立政策により葛木地区は岡藩領・臼杵藩領・幕府領に分割され、別保地区は肥後藩領・延岡藩領・臼杵藩領に分割された。私の先祖が居住していた門田村は延岡藩領にされていた。もともとこれらの地域は摂関家の荘園になっていたところである。

その臼杵藩領であった別保地区森町村の十三郎は真面目で正直一途の農民であったが、斬首の刑に処せられ、晒首にされた。十三郎の娘・おつるは見回りの役人の目を盗んで夜な夜な父・十三郎の首を近くの泉で洗い続けたという。そのおつるの孝心は語り継がれ、その泉は「おつるが泉」と名付けられた。その池はキリシタン公園の南にあった鴨園の堤の北側の岸にあったという。処刑した側の子孫も処刑された側の子孫も今生きていることだろう。

葛木村の甚右衛門と言う人について、「此者、切支丹宗門之由ニ而、万治三年子七月廿九日五拾七歳ニ而召捕長崎参、同年十二月十日及死罪候」とあり、父母病死、姉死罪。息子はキリスト教徒では無かったのでそのまま葛木に居住。娘四人のうち三人はそれぞれ夫がいたが、そのうち一人は幕府領日田の牢獄に投ぜられた後牢死。一人は日田在牢の後長崎に送られ病死、他の一人は長崎に送られ死罪となった。結婚していなかった一人は「長崎参」とある。姪五人のうち一人は日田在牢の後牢死、他二人はそれぞれ別の土地に嫁いでいたが在所で病死。孫十人のうち一人(女性、38歳)は「寛文四年辰六月廿日召捕」えられ長崎に送られたが「申分仕付御助被成、翌年巳二月罷帰在所葛木居住候」とある。

一方、門田村において鬼松と言う人は日田の牢獄につながれ2年後牢死。父・母・継母・弟・姉・妹・甥・姪・叔父・伯母・従兄・従弟・従姉・従妹の一族37名中死罪10名、牢死2名、在牢11名、放免4名という処分状況であった。死罪にされた者の中には上記葛木村の甚右衛門のケース同様、他家の嫁になっている女性が1名含まれている。今で言えば、自分の妻がキリスト教への信仰を棄てないため死罪にされるのを、その夫や子供は受け容れなければならないという状況であった。彼女たちがキリスト教への信仰を棄てさえすれば助命されるのに、彼女たちの信仰心は死をも恐れぬ極めて強いものであったのである。

今の感情でこれらの史実を見れば、耐えきれないほどとても残酷な、悲惨な状況であった。しかし「国家を一つの生物種」と見れば、キリスト教徒たちは当時の日本国という「生き物」の体に巣食う「がん」のようなものであったに違いない。キリストの教えでは、人は一切の偶像を拝んではいけないし、天にまします神以外のものを信じてはいけないことである。ヨーロッパからやってきたキリスト教の伝道師たちに教え導かれてキリスト教徒になった日本人たちは、その教えに従って日本古来の伝統や文化の象徴である神社や仏閣を否定した。このことが当時の日本国の為政者にとって非常に困る問題であったし、キリスト教を信じていない一部の人々にとって、キリスト教徒は自分たちのアイデンティティを破壊する者たちであると思われ、憎しみの対象になった。

前掲「ルイジ・フロア(フロイス)神父の報告」には、仏教の“僧侶たちは彼等(キリスト教徒たち)を迫害し・・・修道会が公然とより多くの危害と、特別な恥辱を受けた・・・”、大津波が“最高の神、そして正しい裁判官”による裁断であるとして“神は、先ず彼等を重分なさまざまな苦難で見舞ったのです。この町はブンゴ王国の首都であり、富裕な商人が住んでおり、偶像の多くの寺があり、この町で大きな権力を持っていた坊主たちが出入りしていましたが、数年のうちに戦争、疫病、飢、火災その他下図多くの惨害で衰えて行きました”と書かれている。

当時の大分市内でキリスト教徒と仏教の僧侶やキリスト教を信じない一般市民との間で激しい対立があったことがうかがわれる。しかし、一方でキリスト教徒たちは今の大分に大きな足跡を残している。一つの例は大分市には「アルメイダ病院」という名前の総合病院があることである。「アルメイダ」という名前は、戦国時代末期の日本を訪れたポルトガル人で医師の免許を持っていた商人のルイス・デ・アルメイダ(Luís de Almeida)が、1557年に大友宗麟から土地をもらい受けで建てた総合病院に因んでいる。当時のその病院は外科・内科・ハンセン氏病科を備えていたという。

世界に目を向けるとキリスト教やイスラム教の一神教の世界では、神の名や宗派の違いによる戦争が絶えない。しかし、ここ日本国内ではそのような争いは起きていない。仏の慈悲が行きわたり、八百万の神々がましますこの日本国は、西暦紀元前66011日(旧暦)に神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこ)が神武天皇として即位以来、途中、何度か皇女が独身のまま天皇になって中継ぎとして皇統を繋ぎ、ずっと男系の皇統が続いてきた国である。天皇は正に日本国民統合の象徴である。

朝日新聞には「女系天皇」という字が躍っているが、「女系天皇とはとんでもないことである。女性のミトコンドリア遺伝子が天照大神につながることは決してありえないが、男性のY染色体遺伝子は天照大神に必ずつながるのである。世界に類例のない、日本人にとっては大変貴重な精神的支柱を無くするような議論や扇動は許しがたいことである。

 現在のように憲法で「信教の自由」が保障されていなかった時代には、為政者により神道と仏教以外の精神文化は弾圧されていた。神道に似たところがある天理教・大本教・金光教も例外ではなかった。しかし敗戦後は様々な新興宗教が興って自由に布教活動が行われ、その信仰は全く自由になっている。

但しオウム真理教のように、独善的な思想をもって社会に不安を起こさせる団体や組織は監視の対象になっている。科学的社会主義(マルクス主義)を理論として活動している日本共産党も監視の対象として今年322日に政府の答弁書が出されている(平成28322日受領、答弁第189号、内閣衆質一九〇第一八九号)。先の選挙で民進党はその日本共産党と連携した。民進党は国家を運営する理念もガバナンスも極めて貧弱な政党である。

 こういうことは左翼から見れば「極右的」に見えるかもしれない。右派でも左派でもなく、また中道・中間派でもなく、いわゆる「大義・公儀」に照らして最善・最良の選択をして行動する派が「真正保守派」である。この日本において、具体的に何が「真正保守派」的選択であるのか、市中に於いて大いに、喧々諤々と論争される文化が顕れることが望ましい。