2018年7月23日月曜日

20180721「渡来氏族」について(2)



当時の総合商社は古代中国からも機織りの人材を引き入れ、ある豪族の保護下に入れた。そのことがうかがえる短歌が『万葉集』に載っている。それは巻七・一二七三の柿本人麻呂の歌「住吉(すみのへ)の波豆麻(はづま)の君が 馬乗衣 さひづらふ 漢女(あやめ)を据(す)ゑて 縫へる衣ぞ」である。「さひづらふ」とは異国の言葉をしゃべっていることである。

 古代中国の歴史書で「倭人」とされている人々は、縄文時代末期以降に縄文人と「渡来系弥生人」が混血或は混血しつつあった人々のことである。「渡来系弥生人」の第一陣は紀元前1000年前後に長江中流域から九州南部に渡って来た人々であったであろう。その後古代中国の春秋・戦国時代に戦乱から逃れ、自分たちの生き残りをかけて九州北部に渡ってきた人々が居たと考えられる。「渡来系弥生人」は数百年間にわたり少人数ずつ九州や本州西部にやって来て、徐々に日本各地に移動し縄文人たちとの間で次第に混血して行き「倭人」になって行ったと考えられる。

 日本人の先祖は縄文人である。縄文人は北方系(樺太経由)・中央系(朝鮮半島経由)・南方系(かつて存在していたスンダランドから丸木舟に分乗して台湾・沖縄など島伝い経由)の三方面から日本列島に辿りついた人々が、何千年以上と言う非常に長い年月の間に互いに混じり合って成立した人種である。その元は約5万年前に中央アジアカザフスタン南部からマンモスなど捕食対象の動物を求めて複数のグループに別れ、大陸を移動して行った人々である。上記3ルートの先祖は同じであるが話す言葉は長い年月の間に違って行ったであろう。

縄文人の先祖たちは日本列島に辿りつくまでの間に動物の骨で縫い針や釣り針を創作し、石器を改良して丸木舟を作るため丸型石斧を創作し、煮炊きのため大釡の土器を創作した。彼らはものづくり・協同作業・意志疎通のため様々な創意工夫を凝らし、ノウハウを蓄積し、社会的な進化を遂げることができた。その結果彼らは上述のように3方面から「エデンの園」のようなこの日本列島に辿りつくことが出来た。そして混じり合いながらお互い知識を交換し、個々の能力を高め合い、社会的に進歩することが出来た。

日本列島という大陸から離れた孤立の島々に辿りつくまでの過程で、人類として社会的に進化した人たちが縄文人の先祖であった。互いに協力し合い、新たな道具を創り出すことが得意な人々が縄文人であった。縄文人は16000年前から3000年前までの13000年間もの長期間、この日本列島で平和に暮らしていた。日本列島だけにしか存在していなかった縄文人という人種は世界的に観て稀有であり、特殊な人種である。このような縄文人の特質がDNAに深く刻み込まれていて、現在の日本人に受け継がれているに違いない。(続く)



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