2018年7月22日日曜日

20180721「渡来氏族」について(1)



 古代に東漢氏・西漢氏・秦氏など「渡来氏族」と呼ばれている人たちが朝鮮半島から海を渡って日本にやって来て、朝廷に仕え、学問・芸術・産業の発展に貢献した人たちが居た。これはあくまで素人の思い付きであるが、私は、彼らの長を含む一部は当時の日本から見た純粋の「外国人」では無く、「倭人」であったのではないだろうかと思っている。但し当時の人たちはそのことを認識することは出来なかったに違いない。そういう観点で私がこれから書くことは恐らく嘲笑され、無視されるだろう。或は怒りを買うかもしれない。

東漢氏・西漢氏・秦氏などは自分達の先祖が中国の後漢の霊帝・献帝・秦の始皇帝であるとか、或は百済王・高麗王であるされている。近年の歴史研究結果では、出自をそのように見せることは自分達の存在が日本で認められるようにするためであったとされている。

しかし彼らの力なしでは『日本書紀』は完成されなかった。蘇我氏の滅亡など政変も彼らの武力が背景にあった。私は、「渡来氏族」とは一体何者かと想像をたくましくして考えた。私は、「渡来氏族」は現代の全国展開の商社のようであったと思う。その本社は京都にあり、営業分門は学問・芸術・産業・警備保障などの分野別に複数あって、末端組織が全国に展開していた。そのような管理運営形態で各地の豪族のニーズに応え、朝廷の政治に貢献した。そのように私は考えている。

『日本書紀』には「渡来氏族」が「人夫(たみ)百二十県」や「党類(ともがら)十七県」を率いて来日したと書かれている。しかし実際は「渡来氏族」の長が知識・技能を有する人たちを連れて日本に渡って来て、各地の豪族の下に配置し、豪族配下の民を教育・訓練して自分たちの組織に組み入れた結果が、『日本書紀』に記述された「人夫(たみ)百二十県」や「党類(ともがら)十七県」であると考えられる。しかも日本に渡って来た彼らの多くは元々「倭人」や「倭人」の血を引く人たちであったに違いない。

もし実際に何千人・何万人もの「外国人」が大挙して日本に渡来してきたら、日本人との間で衝突が起きたであろう。そういうことは起こらなかった。以前私は、後漢滅亡後何千人・何万人もの人たちが大挙して日本に渡来して来たと思っていたが、そうでは無かったのだ。

なぜそういうことが出来たのか?当時の日本では大伴氏・佐伯氏が天皇の親衛隊として「渡来氏族」に睨みを利かせていた。一方で、地方の豪族たちは朝鮮半島の元「倭人」たちと交流して利益を得ていた。朝廷が「渡来氏族」と手を結び日本の発展に利用しようとしたとき、その仕組みに乗ることが地方の豪族たちにとって好都合であったに違いない。だから地方の豪族たちは朝廷の指示に従い「渡来氏族」による事業に協力した。私は、部民という知識・技能集団はそのようにして生まれ、『日本書紀』に上述のように書かれたのだと思っている。(続く)



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